バカ

[7/9 最後にちょっとだけ追記しています。]

「才能がある」という言葉は、何をもって「才能」と呼ぶか定義ができない、いわばブラックホールのような概念。あまりのことにこちらの判断・理解を超えていてお手上げである、ということを表明する讃辞なのだと思います。

私は使いません。

でも、使う人は使うのでしょうし、このブラックホールを解禁すると、論理的必然として、今度は、ネガティヴなブラックホール。あまりのことにこちらの判断・理解を超えていてお手上げである、ということを表明する罵倒の言葉も解禁されて、殺伐とした言語状況が出現することになるのかもしれませんね。

世界は戦場、人間の能力は不平等、音楽は闘い、なのでありましょう。

プレトーク。既に5分押しの状態で、そこから延々、最近自分が手を出しているネットビジネス(コンサートとは関係ない)の話をはじめる常任指揮者。

チンタラと、いつまで経っても終わらないセッティング。

さて、後半だ、と思って身構えていると、またもや、自分の今後の仕事の予定を宣伝し始める音楽監督(しかもこれが岡田暁生がらみ、この名前は何かの呪いなのか(笑))。

バカの巣窟。

人の振り見て、と言いますので、「才能」と「バカ」の中間にとどまり、日々、精進したいと思います。反省せねばならないことだらけの、恥の多い人生、ですから。

(大フィル定期、初日はどうだったのでしょう。)

[追記]

念のために書き添えると、

第1に、そのようなネガティヴなブラックホールを指す言葉で形容したくなる事態が舞台上に発生したとしても、音楽・演奏がどうだったか、というのは、もちろん、別の話です。演奏については、納得しえないこともありましたが、これはいつものように、「才能」と「バカ」の中間に留まって記述可能な言語で、批評として原稿に書きます。

第2に、私は、イタリアという国の、突き抜ける青い空(ポジティヴな意味でのラテン系)、とか、マフィアの跳梁跋扈(ネガティヴな意味でのラテン系)、とか、上と下に突き抜けた文化のイメージを、表象不可能性(「圧倒的な才能/圧倒的なバカ」)と安易に結びつけるのは、フランスやドイツの側から見た、一種のヨーロッパ内オリエンタリズムであるような気がしています。

(イタリアの南半分とかスペインに対しては、そんな風に、半分ヨーロッパじゃないかのように見られているところがある気がするのだけれど、それは、フランスやドイツにとって都合の良いイメージの押しつけである可能性を疑っておいたほうがいいかもしれない、と、私は臆病なので、ためらってしまいます。

ついでに言うと、「大阪論」にも、ちょっとそれに近いところがあるような気がしています。大阪はラテン系、とか、そういう言い方。だから、ふだんは東京で行儀良くやっている人が、大阪でだけ態度を変えたりすることがあるとしたら、それは、幻想にもとづく「甘え」であると判断すると思います。)

そしてだから第3に、当然のことではありますが、この演奏会の演目が、そのような、ひょっとすると「突き抜けた才能/突き抜けたバカ」のイメージと結び付き兼ねない国の作曲家の特集だったとしても、その演奏会の関係者が、あたかも自分がそのようであるかのように振る舞っていいはずはもちろんない、と、臆病な常識人の一人としてそのように考えております。

イタリア音楽をやるのだから、今日はイタリア系・ラテン系で行こう!と思う音楽家がでてくる、というようなことは、可能性としてはあり得るかもしれませんが、

もちろん、今日の演奏会の関係者がそのように思って振る舞ったのかどうかは判断しようがありませんし、

万が一そのように振る舞ったとしたら、残念ながら、本人がどう思おうとも、彼らはラティーノでもイタリアンでもない黄色人種ですから、それなりのみっともなさのリスクを背負うことに、当然、なる。(何、調子にのってんだ。面白すぎて、客席が引いてるぞ、と。もちろん、その勘違いが反転して芸になる、という逆転の可能性は常に残されているにしても。)

いずれにしても、それは、音楽とは別の話で、批評の問題ではない。ということにしておいたほうが、臆病な常識人にとっては都合がよさそうなので、批評ではなくここに書くことにしました。

要は、コンサートの段取りは、グダグダにならないようにしましょうよ、と、それだけのことです。(色々大変だとは思いますけれど。そして、段取りの悪さということでは、とても他人をとやかく言える柄でないのは重々承知しておりますけれども……。日々、薄氷を踏み割って、各方面にご迷惑をおかけしておりますから。)

以下、先月カニーノのリサイタルのために書いた解説の書き出し。

イタリアの音楽というと、カンツォーネやオペラの明るい歌声が思い浮かびます。しかしこれは、人前で見せるオモテの顔。ダ・ヴィンチから『薔薇の名前』のウンベルト・エーコまで、イタリアには、書斎にこもって、膨大な知識を渉猟する、ややマニアックな、もう一つの伝統があるように思います。

[7/9 さらに追記]

もうすこしだけ書きます。思い切り発想を転換して……。

この演奏会は、会場直後から、ロビーでかなり長めのミニ・コンサートがありまして、それが終わると今度は、時間が押しているのもモノともせずにプレトークがあって、ようやくメンバーが入ってきてチューニング、演奏。そうして長い長いセッティングを経て、再びチューニング……かと思いきや、音だしが終わっていないのに指揮者が入ってきて、パラパラと拍手が巻き起こってそのまま演奏がはじまってしまう、というものでした。

予定が狂って、段取りがグチャグチャになったのだと想像しますが、

でも、五百歩くらい譲って考えれば、クラシック・コンサートの習慣になっているオン/オフの切り替え。準備やつなぎの緩い時間と、舞台上の出来事に会場内のすべての人が注目する時間との境目をわからなくなる、意外に新しいスタイルに、偶然だとは思いますが、似てしまったかもしれません。

ルネ・マルタン氏が仕掛けるイベントなんかの場合は完全にそうなっていますし、こういうオン/オフの切り替えを積極的に促さないイベントの作り方(聞きたい人が聞きたいところだけツマンでくれたらいいです、的な)のほうが、今時ではあると言えなくもないかも。

20世紀の、コンサートの枠組みにおさまりにくい音楽が中心なので、なおさら、そういう緩い作りのほうが合っているとも言えなくもない。

ただ、そうだとしたら、もういっそのこと、開演中、ホールの扉を開けっ放しにして、いつでも入って、いつでも出られるようにすべきだと思います。

「この話つまらん」と思ったら、外でお茶を飲む。そのうち音楽がはじまってから、悠然と入るのもオーケー。席の移動もあり。場合に寄ったら、舞台の上にあがって、楽譜をのぞき込むのもアリとか。

セッティングだって、外でおしゃべりしとくんで、10分でも20分でもやっていただいて結構。ひょっとすると、お客さんが一緒にお手伝いする、なんていうのも、一体感が生まれていいかも。

……と、ここまで開放系のイベントにするんだったら、オン/オフの曖昧な緩さも積極的に生きてくるでしょうし、それだけの覚悟があった上での狼藉なんだったら、面白い。

現状では、指揮者と音楽監督の二人だけが特権的に自由気ままに振る舞っていて、演奏家とお客さんは、従来の習慣のままで、おとなしくしていなければいけないから、なんだか、行くたびに腹が立ってくるのですよね。

あんたたち、そんなに偉いの、選ばれた人たちなんだ、へえ、よかったね、と。

(その種の、舞台上の特定の人のみが特権的な振る舞いを許されている状態をながめながら、人によっては、「ステキ」「あんな風になれたらいいわよねえ」という羨望を抱くのかもしれませんし、それがファン心理というものなのかもしれませんが……。私には、ちょっとキツイです。)