「もう一声」と申されましても……

「もう一声」というかけ声に乗せられて作文したら、「知り合い」から「とある音楽評論家」に格下げされてしまったお調子者です。こんにちは。名前は白石知雄と申します。(関わり合いになりたくないと思っているなら、無視して何も書かなきゃいいのに、このエントリーをまとめるに費やした労力を返して欲しいと素朴にムカツいたことを正直に告白しつつ、そちら様の、自分が欲しい情報を得たあとで一連の関係性を「なかったこと」にする態度を大変興味深く受け止めさせていただいております。「知り合い」であるようなないような微妙な距離感をそれなりに楽しませていただいていたのですが、そういうのはお好みではないようで、大変失礼いたしました。身分をわきまえよ、ということでしょうか。……それはともかく。)

「根本的な欠陥」なるものは著者でも(著者こそが)分かってる(少なくともそのつもりな)わけで、「もう一声」欲しいところ。

名誉ある不名誉? - aesthetica sive critica〜吉田寛 WEBLOG

「もう一声」と申されましても、こっちだって仕事があって忙しいんですけど、およそ著者というものは、あらゆる読者に「声」を要求する権利があるのでしょうか??

わたくしは、本屋でざっと序論と章立てをみて、「変な本だなあ」と思ったから買わなかったのです。だから私は、「読者」ですらなく、入口の手前で躓いているのですが……。

(それに、「大論文の後半だけちょんぎって出版された」ことが疑問だと、私は書いてるし、それ以上の感想はなく、以下はその繰り返しにならざるを得ないのですが……。)

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本屋で立ち読みしたときの記憶では、「ワーグナー」に関する記述が、「ドイツ音楽」なるものの変遷を近世から近代にかけて辿るという趣旨の論文の最終章であるとされていて、にもかかわらず、今回出版された本には、「ドイツ音楽」なるものをどのような方針で処理された論文なのかということについてのまとまった記述がなく、いきなりワーグナーの話がはじまっていたように思ったのですが、この理解で間違いないでしょうか?

(ワーグナーの話がはじまる前の序文相当の箇所だけは読んだつもりなのですが、「ドイツ音楽」なるものについて、ワーグナーの章以前にどのような議論がなされたのかという要約や、この論考自体の趣旨みたいなものは出てこないですよね? なぜ「ドイツ音楽」をめぐる論考の最終章がワーグナーなのか、ということも明示的には書かれていない(ように思ったのですが読み落としていましたでしょうか、普通そういうのは序文に書いてあるはずだと思って探したつもりだったのですが……)。あるいは、そうした議論は、先を読み進めると、ワーグナーの話のなかに巧妙に埋め込まれている、そのような企みに満ちた構造にあの書物はなっていたのでしょうか?)

私には、「ワーグナー」に先行する章でどのような議論がなされているのか、著者だけが知っていて、読者にはそれが隠されていると思われ、それはダメだろうと判断したのですが……。

だって、この状態では、この本に頻出することが予想され、少なくとも筋立ての上では「有力容疑者」であるはずの「ドイツ音楽」なる語について、著者と読者の間に圧倒的な(原理的にのり越えることのできない)情報量の差があり続けるわけですよね。それでは、あまりにも著者が有利すぎる。

倒叙形式の推理ドラマで、著者は既に「ドイツ音楽」なる事件のこれまでの経過を知っている(ことになっている)のに、視聴者にはそこが伏せられていて、どのような事件であるかを知らされないままに、刑事が捜査する様子だけを延々と見せられる。そんな不思議体験をすることになってしまいそうな気がして、私にはそういう奇妙な立場へ追い込まれることを好む趣味はないので、買う/読むのを止めてしまった次第です。

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「ドイツ音楽」という言葉が、サスペンスで言うマクガフィンなのだ(この言葉そのものに意味はない)というのであればそれでもいいですけれども、それだったら、この本は、「ワーグナーにおける○○の研究」(○○には任意の彼の文章に登場する単語を代入可能)というゲームの無数の実践例のひとつということになるのでしょうか。

(ワーグナー・ファンというような方がいらっしゃるのだとすれば、その方は、「○○」に代入されているのがどのような言葉であったとしてもご自身の蔵書コレクションに加えておきたいとお考えになるかもしれないので、このゲームが市場として成立する可能性はあるのかも、とは思いますが。)

あるいは、本体の論文が「ドイツ音楽」という語の用例だけをひたすら記述する事典項目のようなものになっていて、それぞれの章がモジュールとして単体で使える構造になっているのでしょうか。

いずれにしても、それなら今度は、要するにつまらない論文(「論」としての構造が弱いような)である可能性が高いと思われてならず、

結局、わたくしの乏しい想像力では、この本の有効な用途を思いつくことができませんでした。

そういうわけで、少なくとも将来どこかでワーグナーのことを調べなければならなくなるまでは買わない、と判断したのですが、このような頭の回転が鈍く察しの悪い一介の消費者の行動に、何か問題があり、著者さまにご迷惑をおかけするようなことがございましたでしょうか?

著者さまは「今後の仕事にいかしたい、つなげたい」とご希望であるかのようにお書きになっていらっしゃいますが、書物自体が論評不能な姿をしている。どうしてこういう書物が出版されてしまったのだろう、とわたくしはひたすら当惑しているのですが……。