まだ現物を見ていないので具体名は伏せますが、ベストを尽くしているに違いないことを認めたうえでなおかつ「相変わらず」感を拭えない企画の話を聞いて、ふと思ったこと。
個人の能力を最大化して記録=レコードを叩き出す、というスタイルは、もうこれからしばらくは(ドーピングでもやらないかぎり)無理なのではないか、ということです。
巻頭対談はゆるく話題が流転していますが、「リテラシー」の語を使って、過去の記録のデータベースを参照した上での「一番でなきゃだめなのか」問題も語られていますね。個人的に興味深かったのは、批評が「誉め」だけでいいのか、という話題を片山杜秀さんが菊地成孔氏から振られてしまう場面ですが。別冊「本」ラチオ SPECIAL ISSUE 思想としての音楽
- 作者: 片山杜秀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/11/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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スポーツで、オリンピックが既にそうなってますし、フィギュアスケートの女の子とか、なんかもう、生贄に捧げられてしまっているような感じじゃないですか。
もちろん、時代と関係なく人が出てくる可能性は常に開かれているはずですから、決めつけはいけないにしても、ソリストのコンクールは、奇人変人大会になるか、さもなければ、たとえば耳栓をして、他人の音を聴かずに集中力を高めるとか、それはもう、音楽とは違う競技になっている気がしなくもないわけで……。
この認識自体が陳腐ですけれども、情報が回るのが早すぎて、個人の差異が猛スピードで消費されてしまうから、個人を突出させる手法では割に合わなくなっているのかなあ、と思ってしまいます。
ひょっとすると、学問とかもそういうことになっていく(既になっている)のかも。特に従来の人文科学や物書きに特徴的な、一匹狼がとっておきの「わざ」を繰り出す、みたいなのは、かなりキツイかもしれない。
(私は、別に自分の「芸」があるとも、そういうのを商売にしようとも思っているわけではないので、他人事ですが。)
チームプレイであったり、社交性であったり、文脈の豊かさであったり、機敏な目先の利く人は、それが決して(20世紀風の体制論・システム論でよく言われた「個人が全体の歯車になってしまう」問題のようには)個人を殺すものではないことに気づいていて、既にもう、そういうところへシフトしているのかもしれないなあ、と。これは、先日のドイツ・カンマー・フィルの演奏を聴いたときにも思いました(批評を出すので具体的には書きませんが)。
「論文」を久しぶりに書くようになって気づくのは、到底自分ひとりの仕事ではないので、ひとつ仕上げるごとに長めの付記や謝辞をつけたくなってしまう(実際に毎回必ず付記や謝辞を短い文章であっても付けてしまう)のですが、この感覚は私だけなのか、つらつら上に書いているのと関係があるのかないのか、そもそもこの「感じ」がたまたま今の風向きがそっちだと思えるというだけで、あっという間に風向きは変わるものなのか、よくわかりませんが。
(こういうことを書きつつ、日々のおつきあいは非礼の連続で、それはひたすら申し訳ないと思っております。すみません。)