内包と外延(小鍛冶邦隆『作曲の思想』p.20-22)について:
内包=comprehension/外延=extensionの語が収まる文脈は、著者が掲載した図から当該曲の形式を推察するかぎりでは、別に無理なところはない。著者は、この二つの単語をごく普通の意味で使っていると思いますが……。
(曲自体を確認したわけではないので、あくまで、文章の整合性の話です。)
漢字だけ見ても「内包」は「内に包む」であり、著者は、曲の「中軸」と呼ぶフーガ3が、シンメトリカルなフーガ2と4,さらに外側のやはりシンメトリカルなフーガ1と5の「内側に包まれている」と分析しており、だからこれを「内包」と呼んだのでしょう。特別な予備知識なく、この文章は読むことができるのではないでしょうか。
comprehension: com(まとめて)+prehendere(つかむ)だから、「内側に包む」で何も問題はないでしょう?
extensionのほうは、comprehensionよりはるかに日本でも馴染みのある単語ですよね。コンピュータは、様々な「extension=拡張機能」を持つことで便利に使えるようになっている、とか。
(大阪音大では、卒業生の就職支援とか、外部からの講演依頼などを受け持つ部署がエクステンション・センターという名前になっております。わたくしも一連の大栗裕関連の講演等で色々お世話になっております。)
技術用語としては拡張という訳語を使うほうが多いけれど、ex(外へ)+tension(延ばす)のだから「外延」でもよさそうだし、むしろこのほうが語源に沿うかもしれない。
で、(1) 基本主題(反行形)と新主題を単体で示す → (2) 基本主題の反転(=基本形に戻る)と新主題を組み合わせる → (3) 今度は、基本主題を反行形のままにして、さらに新主題を加える。
最初の3つのフーガで曲の基本設定を示して、(2)と(3)で、主題を組み合わせたり、反転したりすることで、別の可能性へと展開していく。上の中軸を「内へ包み込む」シンメトリーとの対比で、このような手法を「外へ延ばす extension」と形容するのは、別にいいんじゃないかと思いますが。
(「学内」で育てた既存の主題=学生を、そのあとで外部の主題と引き合わせたり、学科が違って「学内」では出会う機会のなかった者同士を引き合わせたりしてベスト・マッチングを塩梅するするわけですから、音大のエクステンション・センターのお仕事とも類推が働かないわけではないですし。)
字面の漢字からだけでも(背後に想定していると思われる欧文を意識した場合でも)、著者がこの2つの語を用いた文脈は、素直に読み取ることのできるように思います。哲学ではどーたらこーたらと、著者が想定していない文脈へと、勝手に話をextendしているのは、あなたのほうなのではないか。
読者が、無意識のうちに書物のなかに自画像を投影してしまうというのは、失礼ながら、初心者の「よくある症例」と思いますし(アロンソ・キハーノが自分をドン・キホーテと思いこむように)、人はしばしば未知のものに遭遇すると、新しい世界への怯えからこの症状を発症して幻を見てしまうようですが、
(そしてたとえば、モンテヴェルディのマドリガルに驚嘆したアルトゥージが「こいつは鍵盤をデタラメに弾いて作曲したんだろう」と暴言を吐いてしまうというように、誤解にもとづく苛立ちは、しばしば発話者の偏見を素通しで露呈してしまうので要注意。あと、ユダヤ人差別などにもその種の怯えのメカニズムがきっと作動してますよね。
http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/honyaku/klavier.html ←久々に読み返してみたら、かなり前に作った拙い直訳で明らかな誤訳を含みますが、Werner Braunの論文は含蓄に富み、大事なことが色々書いてありますね、頭で考えることに比べて鍵盤で作曲するのが低く見られがちだった背景として、私の読み違いでなければ、かつては盲人がオルガン弾きを職業とすることがあったらしいことも示唆されていますから、それはリアルな差別だったのかもしれません、西洋知識人の即興への恐れと蔑視には、日本で琵琶法師が置かれていた立場に近い問題があったのかもしれない、あと多声音楽の作曲法に非常に細々として音の動かし方の作法があるのは、まるで、一挙手一頭足を細かく制御する日本の能楽みたいだなあ、と思ってしまいました。文明がカミのイデアの支配する中世を脱して感覚世界にあるヒトを肯定する近世を迎えたときに、洋の東西を問わず、ヒトやモノの所作・振る舞いの技芸を発達させたのは面白い。)
批評家(私だ)はバカで無責任だから言いたい放題、脱線して無理に話を面白くしようとしますけれど、学問の場にいる方は、知のフロンティアを切り開く大事なミッションを帯びていらっしゃるのですから、もう少し未知との遭遇への免疫・耐性が欲しいような気がします(本当に)。
音楽学は、文脈に沿って本を読むという基本的な学問のしつけができていない人に学位を与えてしまうザルのような学科だ、ということになるとこれはちょっとしたスキャンダルだと思いますので、どうぞよろしくお願いします。(岡田暁生も本を勝手読みする傾向のある人ですけれど、同じ大学にさらにもう一人、勝手読みしかできない者がいるとなると、これは個人の問題ではないとの疑いを招いてしまいそうですから。)
2つの処方箋(案):
(1) いわゆる「現代思想」について:そのいちばんわけわからない部分は、第一次大戦後の共産主義から対独協力vsレジスタンスの第二次大戦で前半生をぐちゃぐちゃにされてしまったサルトルとレヴィ=ストロースが戦後、実存vs構造でどうにか立ち直ろうとした動きと、戦争中はまだ子供or思春期で主体性など発揮しようもなく育ってしまった日本で言えば「小国民」世代のデリダとドゥルーズのポスト構造主義ですよね(=武満徹、三善晃の世代)。
元レジスタンスの老夫婦の話をアメリカのスピルバーグ・コーポレーション(笑)が買い取りに来たりする。
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1950年代生まれの思想・行動様式とは前提が違いすぎると思いますし、「難解=現代思想」という幻覚めいた観念連合は、何かというと「戦争体験」の話になってしまう戦後日本の強迫観念(まさに武満徹と三善晃のレクイエム!)に似すぎているから止めたほうがいいんじゃないでしょうか。
そういうごちゃごちゃした話は、他人に何か言う前に、まず、自分自身のなかで、ちゃんと清算しておきましょう。いい歳をしたオトナ、社会人なんですから(笑)、なんでもかんでも「現代思想」のせいにしない。これはもう「身だしなみ」の問題、人前でみだりに酔いつぶれてクダを巻いてはいけません等というのに近いハビトゥスの問題ではなかろうか、と思ってしまいます。
構造主義はイラストで学べ! よくできてますよ。もう、これでいいじゃん。
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そして、
(2) 日本の大学哲学について:「内包とは〜の意なり」「外延とは〜の意なり」といって、勝手に「深遠な意味」を単語にのっける訓詁学的哲学は、そのような行為によって、漢字がもつ多様な表現力を殺してしまうことが多い。威嚇による強制を本当に「知」と呼べるのか、と思ってしまいます。
「きちんとその旨説明すべきだし、そもそも、最初からそのような語彙を使わない方が遙によい」というような修身・道徳的な口ぶりで書き手が悪いかのような、他責的な言い方をなさいますが、「私は理解したいのだ」と本当に思っている人間が、そんな風に、自分がものを教わりたい相手に、お前の教え方が悪いと文句を言うものでしょうか。それは、「学び」の態度ではなく、「甘え」だと私には思えるのですが……。
著者の文は、「内包=内に包む」「外延=外へ延ばす」と読み下すだけで意味が通るようになっているわけですから。
それに、「内包」と「外延」は、別に哲学業界がパテントを取得している専門用語ではありませんし、この語を使う度に哲学業界に仁義を切れ、と強要するのは、ムラ社会の圧力団体の所業に似てしまっているんじゃないでしょうか?
まとめ:
……だから、この本は思想thinkingと言ったって、ニッポンのザ・哲学とそんなところで絡む本ではないと思ったほうが、よっぽど楽しめるんですってば。
肩に力が入りすぎ!
I suggest you to translate Kokaji-san's book to English or French.:-)
)
実は私は「内包」と聞いて、哲学より先に、list comprehension(リストの内包表現)というプログラミング言語のタームを思い浮かべてしまいました。
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マックOS XだったらPythonは標準で入っているので、ターミナルですぐ試せますね。
[~] python # Python起動 Python 2.3.5 (#1, Jan 12 2009, 14:43:55) [GCC 3.3 20030304 (Apple Computer, Inc. build 1819)] on darwin Type "help", "copyright", "credits" or "license" for more information. >>> list = [1, 2, 3] # リストを作る >>> [3*x for x in list] # 内包記法で各要素を3倍にする [3, 6, 9] >>> ^DGoogleでも標準で使われているPythonを開発したグイド・ヴァンロッサムは1960年生まれで、Rubyの人とかと同じく小鍛冶さんから一回り下の世代ですが、そういえばtwitterのサーバ・ソフトウェアがそれで書かれていることで話題になったErlangも、listをcomprehensionで扱える言語らしいですね。
言語と創造性ということを今考えるとしたら、コンピュータのプログラミング言語というのはいったい何なのかを視野に収めておいたほうがいいだろうし、人工言語としてのありようは、「音楽というテクノロジー」を考えるうえでも参考になることが色々あるんじゃないでしょうか?
(私・白石知雄が、学生でなくなってから数年、パソコンにかなりハマっていた時期がある、というだけの個人的バイアスかもしれませんが。
でも、各種機器を制御したり、何かのシミュレーションのためにプログラムを作曲家さんが自分で書くというのは、たぶん90年代よりこちら側だと、それほど珍しくないんじゃないでしょうか?
そういう動きを一切見ない・考えないようにして、伝統的な「文系」のアンテナに引っかかる部分だけを恣意的に抜き出した歴史像を思い描いて、それで、美術による音楽史の絵解きをする宮下誠の本を読みながら、これで十分だよね20世紀は、みたいな納得をしてしまうのは後ろ向き過ぎるというか、現役をリタイアした人たちによるナツメロ愛好会みたいな感じがしてしまうのです。そういう慎ましい文化サークルに暮らすことで幸せを感じる方々を否定するわけではないし、末永くお幸せに、と心から思いますが。)