学会欠席届(声を合わせることについて)

http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/asia/msj/#353

6/4 日本音楽学会西日本支部 第1回(通算352回)例会

  • 1.岡田正樹(大阪市立大学大学院)
  • 2.田邉健太郎(立命館大学大学院)
  • 話題提供とディスカッション 輪島裕介(大阪大学)
  • 司会:増田聡

要するに、増田聡のところと吉田寛のところの学生が発表して、最後に、彼らのお友達で、今度阪大へ来た輪島せんせいのご登場であるらしい。

6/25 日本音楽学会西日本支部 第2回(通算353回)例会

  • 第21回(2010年度)小泉文夫音楽賞受賞者による記念講演(チャールズ・カイル(ニューヨーク州立大学バッファロー校名誉教授))
  • 修士論文発表1.上羽義信(京都市立芸術大学大学院)
  • 2.戸田直夫(大阪大学大学院)
  • 例会担当:本岡浩子

こちらの発表者は、小泉文夫賞関連以外、二人とも大阪音大出身で、会場も大阪音楽大学。

なんじゃこりゃ。

学会というのは、あれですか、一生、自分の出身校とかの経歴がついて回る場所で、運営委員によって、そのような色分けがされ続けるわけですか?

あるいは、6月4日の例会に来た人間は、そのことによって、「マスダ・ヨシダ派」を承認したことになって、身内に入れてもらえて、来なかった人間は異教徒だ、みたいに、学会を「踏み絵」として利用しているわけですか。

いろんな立場の人が集まって、そのことで揉まれて、思考のバランスが保たれていくのではないのでしょうか。

将来ある人たちを勝手に派閥に色分けするような運営に、私は断固反対です。こんな馬鹿な政治ごっこのために高い会費を工面しているのかと思うと情けない。

(ワジマくん来版を盛り上げようとして、裏目に出た施策だと私には思える。土地の顔役が、勝手に気を回して、宴会に呼ぶ人間/呼ばない人間を選別してしまうような、イナカ者の発想に思えてならない。阪大で研究室の雰囲気を険悪に淀ませたのと同じ種類の「悪しき仕切り」を、学会で公然と反復するのはやめてほしいです。それとも、わたしたちは、地元の高校同級生と結婚した北九州移民には、そういう発想が染みついているからしょうがないのだ、というような解釈をせねばならないのでしょうか? それほどまでに、人間は出自に生き方が規定されてしまう生き物なのでしょうか?)

6/4は、どのみち、仕事があるので行くことはできないですけれど。

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伝え聞くところでは、阪大音楽学研究室と東大美学研究室の合同合宿なるものが行われたらしく、そんなに旧帝大だけで集まりたいなら、別の団体を作ればいいんじゃないかと思ってしまいますが……、

最近、柴田南雄の自伝を読んで、東京芸大楽理科には、かつて一時期、東大出身者だけでスタッフを固めるような動きがあったことを知りました。そんなことを言い出せば、阪大美学科というのも、成り立ちは、木村重信先生が、母校へ戻れなかった京大美学出身者を集めて作ったわけですが、一般に、そういった「同窓会」志向を一方的に推し進めた先にロクなことはないだろうということは、先験的に予想がつきそうなもの。

近親相関をタブーとせずに存続した人間集団は、おそらく、ないと思うのですが。阪大音楽学の先輩方が、あの人もこの人も実際の私生活で離婚されたらしい、ということも耳に入り、この集団は、次の世代を育てる安定したしくみを作るのがヘタクソで、同質的に閉じる傾向が強すぎるのではないかと心配になってしまいます。

[余談]

そういえば小泉文夫民族音楽賞とはどういう賞なのか、調べてみて、こういう記念公演を見つけました。

http://www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/award/21jj1.html (←ページ上部に「無断引用転載禁止」の表示あり。「無断転載禁止」はともかく、「無断引用禁止」は意味がよくわかりません。「引用」されることを拒否せねばならない学術情報とは何なのでしょう?)

「多声的歌唱の起源が、音楽文化の後期の発達段階とは関係していない」、平たく言えば、先に単声歌唱があって、そのあとで合唱が発展した、という先後関係を鵜呑みにすることはできないという説で、集団が声を合わせて歌う行為は、ヒトの生存に関わる基本的な文化として、古くからあったはずだ、と提唱する講演です。

『岩波講座文学5 演劇とパフォーマンス』でも(まさか、岩波講座は「無断引用転載禁止」ではないですよね(笑))、編者の兵藤裕己さんは、一遍上人の大念仏を次のように想像・描写して、

合唱する声の物理的な共鳴のなかで体感される宗教的エクスタシーは、いかにも無我、無私なものとして感じられたろう。声がつくりだす共同性は、悟り(法悦)へいたる回路として、一遍によって自覚的に方法化されてゆくのだが、[……]

「声と身体のパフォーマンスが、「われわれ」という主体とその社会編制のありようを秘儀的に表象する」という議論に、日本の演劇的な芸能を組み入れています。

岩波講座 文学〈5〉演劇とパフォーマンス

岩波講座 文学〈5〉演劇とパフォーマンス

広い意味での「合唱」に集団(「われわれ」)を立ち上げる契機がある、というのは、経験的には、現代の様々な集団・コミュニティの観察や参加体験がベースにあるのだろうと思います。渡辺裕の「歌う国民」もそういうトレンドに乗った本ということになるのでしょうか。

で、そういう議論は、「合唱」の喜びをしばしば起源論と結びつけるようですね。

兵藤さんの書き方は、(いつもそうですが)ロジカルというより、描写の迫力で押し切るところがありますし、ジョルダーニア先生の講演は、原始人類が「集団で一斉に声を発した」可能性を示唆するけれど、本当に原始人類が声を「合わせた」のかどうか、まではわかりません。

てんでばらばらにそれぞれが声を発して、全体としてウワッと声が堆積したのか、それらの声が何らかのやり方で制御されていたのか、そして、どちらが先なのか。そのあたりに気をつけておかないと、現在と起源を論証抜きにくっつけてしまう危険な話になる気がしています。

天然自然に声が「合う」ものではないことも、わたしたちは経験的に知っているわけで、

一斉に声を発することは古くからあったかもしれないけれども、声を「合わせる」ことまでもが、同様に古かったかどうか(「声の物理的な共鳴」が、どれくらい古いナチュラルなことなのか)、何を持って声が「合う」と認識したのか(物理的・音響的な「共鳴」が「合う/合わない」の自明の基準だったのかどうか)ということは、慎重に見極めねばならないのではないか、と私には思われます。

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大植英次さんもドミンゴも、みんなが「ふるさと」で心をひとつにしようとしている御時世に、こういうことを書くのは、逆に、ありがちすぎる意見かもしれませんが。

でも、少なくとも、学会というような集団は、ライブ・パフォーマンスをやるために集まっているわけではないし、全員で一斉に声や考え方を「合わせる」ことを目的とする集団ではなく、むしろ、百家争鳴をどのように確保・保証することが期待されているはずですよね。

「効率よく観客動員ができるスター主義」であるとか、「こういう属性の人間はお互いに話の合うだろうという最大公約数を論証抜きで勝手に決める」というのは、研究者の情報交換にはなじまない発想だと私には思われます。

そういうやり方は、なんだかとっても「頭の働きが鈍い」感じがするんですけど。(学会統治を楽にするために、新しいことをやろうとする有志の足を引っ張るヒガミであると官僚的に処理するのであれば、別にそれでいいですけど。)

ただし、こう書いたからといって、合唱で声を合わせることが頭悪そう、と言っているわけではもちろんありません。むしろ、私は、とうてい自然とは思われない状態に声と身体を適合させる「合唱」という文化的な振る舞いに、いつも畏敬と畏怖を覚えます。

日本の合唱史

日本の合唱史