柴田南雄が藝大の先生だった頃を思いつつ音楽学のことをもう少し考えてみる

前のエントリーで、

最近、柴田南雄の自伝を読んで、東京芸大楽理科には、かつて一時期、東大出身者だけでスタッフを固めるような動きがあったことを知りました。

と書きました。その話のつづきです。

バルトークが民謡研究に没頭したり、ブーレーズがシェフネールに教えを請うていたことが書簡集で明らかになっていたり、20世紀に音のフロンティアを切り開こうとした作曲家は、音楽研究(音楽学)の動向に関心を持つことが少なくないので、20世紀の音楽の研究は、音楽研究それ自体を研究対象にせねばならない局面が出てくると覚悟せざるを得ないようです。

ブーレーズ‐シェフネール書簡集1954‐1970―シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ドビュッシーを語る

ブーレーズ‐シェフネール書簡集1954‐1970―シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ドビュッシーを語る

日本の旋法を使った作曲家のことを考えるときに、上原六四郎や小泉文夫の議論を参照せざるを得なくなるのは序の口(http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-fantasia-osaka2.html)。

柴田南雄は、1960年代には、服部幸三や小泉文夫と一緒に、日本音楽学会の本部事務局のある東京藝大楽理科の教授でした。

一九五九(昭和三四)年一〇月に、一片の「配置替えを命ず」の辞令で芸大の楽理科へ移った。[……]
次の年度からの芸大楽理科の教授陣は、野村良雄、柴田、服部幸三、小泉文夫の四人の専任教官と、非常勤の辻壮一、土田貞夫、神保常彦、海老沢敏、皆川達夫、福田達夫、大宮誠の諸氏がみな揃いも揃って外様の、東大文学部または同大学院出身者だった。この人的構成は明らかに偏っていた。旧東京音楽学校出身の演奏家の先生方たちには、いかにも学内の一角に外人居留地みたいなものが出現したと映っただろう。[……](柴田南雄『我が音楽わが人生』1995年、岩波書店、251-252頁)

このくだりを読みまして、私は、陳腐な表現で言えば「はたと思い当たり膝を打った」のでございます。この1960年の教師陣に、以前書いた音楽之友社の『西洋音楽史』プロジェクトの著者4人の名前が揃っているからです。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110406/p1

リンク先で引用したように、音楽之友社の目黒三策社長が、皆川達夫、服部幸三、海老沢敏、柴田南雄による書き下ろし全4巻の西洋音楽史を企画したのは、まさに1960年頃だったようです。藝大楽理の東大閥に目黒社長(彼も東大卒)が目を付けて、音楽史の決定版を作ろうとしたのでしょう。

考えてみれば、伊福部昭の管弦楽法(1953-1968年刊)も、島岡譲の和声の本(いわゆる藝大和声の本、1964年刊)も、版元は音楽之友社です。東京藝大の教科書をスタッフが書いて、それが弟子たちを通じて広まって日本の音楽理論書の定番になる、という構造があり、音楽之友社は、この鉱脈をがっちり押さえていたようです。楽理科も、スタッフに音楽史の教科書を作らせたら、確実にロングセラーになるという読み筋だったのでしょう。

音楽之友社は音楽学会の機関誌の編集を請け負っていますし、自社の雑誌『音楽芸術』には、1952年の音楽学会設立当初から学会の動静を伝える記事を掲載するなど、既に、学会の出入り業者としても実績を重ねていますから、この時点では、『西洋音楽史』はさほど無理のない、いかにも友社が立ち上げそうな企画だったのかもしれません。

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結局、柴田南雄は藝大を10年で辞めています。

さて、芸大在職期間は思いのほか長くなり、一〇年目の一九六九(昭和四四)年五月限りで教授の職を退いた。五二歳だった。今から振り返るとこれは世界規模の大学騒動にはじまる価値観の変化の、わたくしなりの受け止め方でもあったと思う。[……]いずれ、この嵐は芸大にも来るだろう。それに巻き込まれてはかなわない、という意識がまったくなかったとは言えないだろう。だが退職を思い立った直接の理由は、それではない。まず前々年頃から、担当の時間数が異常に多くなり、[……]このままではわたくしの音楽的生命は終わる、という危機感があった。(254頁)

彼は『西洋音楽史 4 印象派以後』を辞任の2年前に上梓しています。もし教授就任直後に出していたら「藝大東大閥の旗揚げ宣言」みたいに受け止められかねなかったでしょうが、すでに企画から7年経っていますから、そこまで波風を立てることにはならずに、これで社長への義理も立つ。書物として話題になったとしても、その頃には本人が藝大を辞めているというわけで、こういう身のかわし方が「柴田流」なのかな、と思います。

(学問で出世したいと願っている方々は、こういう処世術をこそ学ぶべきでございましょう(笑)。)

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冷静に考えると、(こんなことを書くと不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが)音楽家養成コースの楽理教師に期待されているニーズと、音楽学研究のフロンティアを目指すことは、よほど上手くやらないと、簡単には両立しないような気がします。自分が文学部出身だから音楽大学を下に見ているというようなことではなくて(だいいち私は、2つの大学の音楽学部に出講して、音楽大学には本当にお世話になっております)、外国文学の研究者が同時に大学教養コースの語学教師である場合に直面するような研究と教育のバランス調整に似た問題が出て来て当然だと思うからです。

たとえば、調理師学校で、将来オーナーシェフになることを夢みている若者たちに「食文化」への一定の見識を持ってほしいと教師が願うのはわかるけれど、文化人類学者として諸民族の「食」を研究する人材を育てたり、アナール派の流儀で「食の歴史」を史料調査する人材を育てる場合とは、カリキュラムが違って当然だろう、という程度の素朴な意味です。

音友の藝大教科書ビジネスが、作曲科(和声法や管弦楽法)では成功を収めて、さらには藝大卒の作曲家の楽譜出版まで請け負う形で生態系を(少なくとも60年代には)形成できた一方、楽理科で、音楽学・音楽史の市場を囲い込むには至らなかったのは、そのあたりの構造的な事情があると考えることもできるのではないかと、私には思われます。

宗教音楽の比重が大きい中世やルネサンスの音楽史をやるなら、キリスト教系の研究機関のほうが有利かもしれないし(皆川先生や金沢先生がそうであるように)、近代の藝術音楽の美学や歴史を取り扱うときには文学部の哲学や歴史学(本家東大の美学がやってきたように)、非西洋や20世紀の大衆化を見据えた音楽文化論には社会諸科学との連携が必須なのでしょうし(これは、阪大の文学部出身者による「なんちゃって社会科学」ですらある程度通用してしまう時期があったくらいに、まだまだこれからの未踏領域なのかもしれませんが)……。

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でも、そうはいってもやはり、一方で、楽理系音楽学の貢献はとてつもなく大きいとも思います。

[追記]ここで、外延と内包というような言葉を使うと、論理学のスイッチが入って脳内が暴走する人が出てきそうなのでやめておきますが、一般大学で音楽を研究するほうが、学問諸領域との連携や関係性、音楽とその他の事象との差異やつながりに気付きやすいかもしれない一方で、音楽に特化した環境は、対象をこれと見定めてその特性を記述・描写する作業を集中して進めるには良いかも知れない気がします。(実際、ベートーヴェンのスペシャリスト、メンデルスゾーンの研究家、というタイプの先生方が楽理から出て、業績をあげていらっしゃいますよね。反面、大阪大学の伊東信宏先生も、京大の岡田暁生先生も、バルトークやシュトラウスの研究家だと言っても、評伝をまとめるというようなお仕事はしていらっしゃらないわけで……。あと、ポピュラー音楽研究の旗手(だったのかもしれない)増田聡せんせいは、コンセプチュアルな論評に終わらない情報をまとめた『音楽未来形』という本を出していますが、この本は、藝大楽理出身の谷口さんとの共著です。二人の分担は書物のなかでは明記されていませんが、彼の他の単著と比較して推察すると、データ・資料面の多くを谷口さんに負っているんじゃないでしょうか。)

ダールハウスという戦後西ドイツで大きな仕事をいくつもまとめた音楽学者がいて、調的和声の成立とか、ベートーヴェンの詩学とか、古典・ロマン主義美学とか、ドイツの音楽文化の背骨のような問題を扱っており、仕事の構想は大きいのですが、実際に読んでみると、彼の仕事は、引用したい衝動に駆られる細部がたくさんあるのに、全貌を要約するのが困難です。20年以上前に亡くなった学者にいつまでもこだわるつもりはないですが、彼は、音楽形式論の学説史をまとめた論文で、ドグマティックになることなく音楽作品の形式を記述しようとすると、楽曲解説(Konzertfuehrer)風にならざるを得ないし、楽曲解説の折衷的なスタイルをバカにしてはいけないのではないか、という意味のことを書いていたと記憶します。この発言がずっと気になっているのです。

一方、大阪大学音楽学研究室のスタッフ紹介ページを見ると、伊東信宏・輪島裕介両先生のコメントは、申し合わせたわけではないだろうに、相互になんとなく似通った話になっています。文学部における音楽学が、人文学なり社会学なりの知的枠組みを背負いつつ対象にアプローチすると、既存の枠組みをすり抜けたり、既存の枠組みの根拠が疑わしく思えてくる事態が、音楽を扱っていると少なからず起きる。そして既存の枠組みで捉えがたい対象に遭遇した一種の崩壊感覚に耐えることが、今、文学部のなかで音楽学をやる生命線かもしれない、とお考えのようです。

同種の事態に直面して、理論的に整合しないツギハギになろうとも、とりあえず記述をやり遂げようとすると楽曲解説風になる。一方、そのような状況で知識人の装いを保とうとすると、こういうポストモダンをカジュアライズしたような物言い(いわば「ポスト・ポストモダン」は反転の反転で案外普通に見える、みたいな?)になる、ということなのでしょう。私には、一方が古くさい乗り越えられた感慨で他方が最新最先端の認識であるとか、一方が他方より優れているというより、同じことを別の立場と方向から言っているだけであるように思われます。

岡田・伊東両氏は京都のいいとこの子なので、泥臭いことには関わりたくないという個人の趣味嗜好としてああいうスタイルを通していらっしゃるのだと思いますが、どうもマスダ氏の「ディシプリン」や「エートス」という言葉のブルデューぶりっこをした奇妙な使い方を見ていると、単なる趣味嗜好ではなく、そこに原理原則があると思いこんで、変な制度を作ろうとしているように見える。それは恥ずかしい勘違いだと思うし、そんな風に右往左往する姿は、滑稽な太鼓持ちの上滑りであるかのように外野からは見えるのですが、そういう理解でよろしかったでしょうか?[追記おわり]

そして、ものすごく下世話な話になりますけれども、東大や阪大出身の男子音楽学研究者が、音大の楽理の女の子とつきあって結婚するといったケースは、あっちこっちにあるようです。「学問としての広い視野が必要である」と言っている当人が、家に帰ると、「音楽に特化した」楽理出身の奥様になにくれとお世話になっていたりするわけです。

今では教員養成のニーズが激減していますけれど、音楽科教員資格を得るには音楽学の科目が必須になっていて、ある時期から西洋音楽だけでなく諸民族の音楽に関する科目も必修になっているようです。だから、全国の音楽教育学部には必ず音楽学の教員がいますし、阪大ができてしばらくした頃は、教育学部の民族音楽教員の需要が多かったらしく、民族音楽の先輩方が次々各地の大学に就職していました。(少し前から若手ポピュラー音楽研究者の就職が次々決まっているのも、似たような事情によるはずです。)天然自然に教員ポストが降ってきたわけではなくて、楽理系の皆さまの働きかけや、そのような体制に理解を示してくださっている他の同僚の方々のご理解あってこそこのような状況があるのだと私は思っております。日々感謝の心、でございます。

あと、文学部や社会学部出身の音楽研究者は「聴衆の視点」を言い募る傾向があり、現場を知らないのは仕方がないにせよ、そこまで強情に「聴き手の立場」へ開き直ることもなかろうと思わずにいられないことあるのに比べて(それって絶対、夫婦ゲンカの元凶になりますよ!)、楽理系の方々は、音楽家の気持ちの機微がわかるところが、やっぱりあるんじゃないでしょうか。古楽や同時代の音楽など、理論と実践が密着した分野で楽理系の研究者が圧倒的に強いのは、そのせいだと思います。写本が残るだけであったり、忘れられた音楽家の手稿譜が見つかったりした場合、まずは「音にする」必要が出てきます。そういうときに、頭でっかちの文学者や社会学者はお手上げで、自分で演奏したり、演奏の場をオーガナイズするノウハウをもっている楽理の方々の独壇場になるようです。

それから、(手前味噌気味ですけれど)楽譜や楽器などのモノ、音楽資料の収集は、音楽に特化した機関でやるほうが、一般大学よりも事態がスムーズである可能性が高いように思います。片山杜秀さんが、『日本の作曲2000-2009』で、日本の音楽アーカイヴ施策は根本的に間違っていると怒っていらっしゃいますが、楽理科が、資料調査系の人材を育てると同時に、音楽資料センター的な機能を整備するという戦略は、かなり有望なのではないかと思うのです。

日本の作曲2000-2009 サントリー音楽財団創設40周年記念(単行本)

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  • 作者: 片山杜秀,白石美雪,楢崎洋子,沼野雄司,発行:サントリー芸術財団
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国内にある資料を取り扱うタイプの研究が、学会でも増えつつあるようですし(そういう道をつけたのは長木誠司さんのお手柄ですよね、たぶん)。

戦後の音楽――芸術音楽のポリティクスとポエティクス

戦後の音楽――芸術音楽のポリティクスとポエティクス

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文学部や社会学部出身の人間は、文学部や社会学部での例会で発表させて、客席にはそれ系の人だけが集まる。楽理科出身の人間は、音楽大学の楽理科での例会で発表させて、客席にはそれ系の人だけが集まる。前のエントリーでご紹介した日本音楽学会関西支部の例会プランは、暗黙にそのようなモデルを想定しているように見えてなりません。

でも、これってまるで、男子校と女子校に分離して、「男女三歳にして……」みたいなんじゃないでしょうか。戦後の日本が下意識へ抑圧してきた旧制高校と女学校への郷愁が、教養の再構築とでも呼ぶべき時流のなかで奇形的に噴出しているようにも見えてしまうのですけれど……。(コトを主導しているのが旧帝大出身者であるところが、なんとも兆候的であるようで……。あと、マスダくんの父親が高校の体育教師だというのも、なんとも……。彼の学会運営や、彼の言う「エートス」や「ディシプリン」という言葉には、校則を守るためには体罰を辞さないマッスル教師の血が秘かに受け継がれているのだろうか?)

まさか、かつて演奏家とつきあって思い出したくない経験をしてしまった、とか、音楽大学出身のヨメと結局うまくいかなくて、とか、そういう卑近な体験から楽理科を遠ざけるようになってしまっている、などということはないと思いますが(←この段落のここまでの記述は、話の流れのなかで挿入したいと思いついてしまった筆者の創作・フィクションであり、実在の日本音楽学会関西支部会員とは一切関係ありません)、

天下国家や世界情勢を俯瞰するのも結構ですが、もうちょっと目の前のお仲間の置かれている状況に配慮してもいいんじゃないでしょうか。

人文学や社会科学の最先端はこのように進んでいる、という話題に皆さんご熱心なようですけれども、それと同じように、音楽大学や楽理科も、どんどん変化しているはずだと想像したほうが自然なのではないでしょうか。柴田南雄が他の東大出身者と一緒に藝大へ呼ばれた頃とも、みなさんが鼻っ柱の強い学生だった頃とも、大幅に状況が変わっているはずだし、その可能性があると想定して認識をアップデートしたほうが安全なのではないでしょうか。

関西にいらっしゃる先生方のお仕事を拝見していても、柿沼先生(まだ一度もお会いしたことはないですが)の翻訳書のセレクションはカッコイイと思いますし、

20世紀を語る音楽 (1)

20世紀を語る音楽 (1)

寺内先生のクールな視線と、ジャンルを問わず音楽に寄せる寸評(芸術祭の審査のときにお伺いすることができました)は素晴らしく的確。

雅楽の〈近代〉と〈現代〉――継承・普及・創造の軌跡

雅楽の〈近代〉と〈現代〉――継承・普及・創造の軌跡

阪大出身者の迷走、どこへ向かおうとしているのか、と心配になってしまいます。なんかちょっと、キモくないっすか?

雅楽を聴く――響きの庭への誘い (岩波新書)

雅楽を聴く――響きの庭への誘い (岩波新書)

寺内先生がこういう本を書いていらっしゃったようで。今検索してはじめて知りました。すぐに買わねば!

(大阪大学音楽学のサイトに輪島先生のプロフィール写真があって、まったく予期せぬ、どんな過酷な環境でもサヴァイヴしそうにガタイのいい人だったので、ちょっとびっくり。実物を一度見たい、というのが学会へ行く動機付けになる可能性が、ひょっとするとあるかもしれない。みんな学会へ行きましょう。(←好き勝手なことを書き連ねたので、いちおうフォローのつもり。))