承前:ツーカーの消滅

戦後かなり長い間、大阪フィルと関西歌劇団と大阪音大は、公式の組織としては別だけれど、全部(少なくとも事実上の)ボスは朝比奈隆で、同じ人たちが役割を使い分けるエイリアスみたいな感じだった(と考えるしかないように思う)。

あの人たちは隠さず遠慮なくそうしていたので目立ったけれど、別にあの人たちだけがそうだったわけではなくて、前にレポートしたように(日本)音楽学会と東京藝術大学楽理科と音楽之友社の関係とか、吉田秀和や柴田南雄とは何者だったのか、とか、昭和後期の日本(の洋楽文化)は、だいたいどこもそんな感じになっていたんだろうと思う。

表看板が「近代化」なのはそうだけど、この島は、分業・分権を理想的に実現できるほどの人材がいたわけではなく、みんな、色々兼ねたり、足りないところをやりくりしていたのだと思う。

與那覇潤が言う「再江戸時代化」は、雑なキャッチコピーだとは思うけれど、そういうものをくっきり浮かび上がらせるサーチライトには確かになる。

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私の世代が大学生だった昭和の末期にも痕跡ははっきりあって、だいいち、阪大の音楽学出身者をみると、中川真も岡田暁生も伊東信宏も(その他、私よりあとに大学院へ来た何人かの「オジサン」たちに至るまで)、谷村晃門下には、やたらと大学教授の「二世」がいた。たぶん、旧帝大の大学教授コミュニティのなかで、「谷村くん」は「音楽なんぞにトチ狂ってしまったウチの息子」の面倒を見てくれる奇特な人、という位置づけだったのだと思う。

東京芸大だって色々あって、「あそこの音楽学教員は、芸大楽理を出た若手が東京へ呼び戻されるまでの待機場所」みたいなところが西日本にもあったし、だから集中講義で何度か行った鳴門教育大の図書館は、マスダくんが助手になるまではエラく楽書が充実していた。

そういうのをお互い「ツーカー」で踏まえつつ、表看板としての「近代化」をやっていたわけで、そういう風に「偽善」で弱いところを縫い合わせないと、理想論ばかり言っていたってしょうがないところはある(あった)のだと思う。

そうして、ほぼ平成に入って、それでは難しくなったときに何が起きたかというと、

岡田暁生は、「これからは全部気心の知れた二世音楽学者の互助組合でやっていこう」という政権を明け渡す前の自民党みたいなことを夢見ていた節があり、そうしたら、いくらなんでもそんなことを表だって全面展開されるとカドが立つ、という「神の見えざる手」が働いたのか、彼は、人文研という、学生との接点が薄い場所へ「隔離」されることになった(笑)。素晴らしき京都大学人コミュニティの知恵だと感動せざるを得ない行く末であるわけです。

一方、大学院改革後に順当に博士号を取った「ロスジェネ」世代は、そういうのを含めて、上の人たちの「文化資本」の運用作法はよーわからんし、自分らにはマネできないから、自分たちだけの「横のつながり」(これぞソーシャル!)でやりくりしようと考えた。

それは、実際に顔を突き合わせている相手が「ツレ/身内」だから、当人達には新時代の親密圏の再生と思えたかもしれないけれど、もちろんそんなのは錯覚で、グローバルなネットワークのサブシステムでしかないのだから、「グローバル」の掛け声に押されて馬車馬のように働かされて、色々な責任を負わされる結果が漏れなく付いてくるのはしょうがない、と傍目には見える。(管/野田の民主党みたいなもんですね。)

前のエントリーと同じく、これもまた、だからどうしたという話だけれど、だいたいここで数年来ブツブツと書きつづってきた話は、おおむね、そういうことが言いたかったのだ、という風にまとめて差し支えないんじゃないか、と思っております。

個々の記事を読むと怨恨・私怨とか思うかもしれないけれど、たぶんほとんどそれはないんだよね。

別に「研究者」というところへ人生・実存をかけて、そこが唯一の生命線であるような生き方をできてはいないし。

いやあ、人間模様は面白いなあ、と日々感じ入っているのです。

「音楽学は政治だ」、それならそれでいいんじゃないの、と。