大阪国際フェスティバル(大阪国際芸術祭)の立ち上げは吉田秀和が「音楽展望」をはじめるよりもかなり前

昨夜、第51回大阪国際フェスティバルの一環ということになっているフェニーチェ劇場の「オテロ」を見せていただいたのですが、入口の招待客受付で窓口のおばちゃん(リニューアル前からいる人)にわけのわからん嫌味を言われて、ふと考えた(笑)。

吉田秀和といえば、最後はNHKラジオ「名曲のたのしみ」と朝日新聞「音楽展望」の人だったわけですが、以前にも書いたように、前者は1971年4月11日から、後者は1971年3月15日からであるようです。彼は戦後しばらく毎日新聞に演奏会評を書いた時期があって、そのあと少し間を置いて、1960年代には主に読売新聞に寄稿しています。

ということは、大阪国際フェスティバル(第1回のみ大阪国際芸術祭)が1958年にはじまったときには、吉田秀和はまだ朝日新聞の別格的最有力音楽評論家ではなかったんですよね。

彼が同音楽祭(に含まれる公演)のために春は大阪へしばしば来ていたことが著作からわかりますが、それはつまり、大阪国際フェスティバルが関西の(初期には日本の)一大行事だった頃、この催し物は、別に朝日新聞だけが自社イベントとして独占的に盛りあげていたわけではなく、色んな人が色んな立場からあれこれ言えたし、言っていたということです。

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その後、吉田秀和は新聞としては朝日にもっぱら書くようになって、さらに現在では、朝日新聞に書く評論家は全員、吉田秀和から水戸で賞をもらって、そのまま吉田秀和が死んじゃって、その事実だけが残るというわけのわからん状態になっているわけですが(笑)、

別に、だからといって他紙はそんなのは預かり知らないことですから、まあ、前と同じだろうと思って、再開後も面白そうな公演だと思ったら、普通に公演評で取り上げようと考えると思われます。

(少なくともクラシック音楽では、今のところ、他社が主催している公演を取り上げるのはそれほど珍しいことではなく、新聞社の報道事業と文化事業は独立している建て前になっているようです。)

さてしかし、大阪国際フェスティバルに関して、この慣行というか通念は、この先もこのままでいくんですかね。

私は、前のままにしといたほうが風通しがいいんじゃないかという意見を持っていますが、こういうのは、どうするのが正しい、という答えがひとつに決まることでなし、はたしてどうなるか。微妙に気になるところではあります。(あまり他人事ではないですし。)

いずれにしても、冒頭に書いた「おばちゃんの嫌味」は、前からそういう余計なことを言う人だったので、深い意味はないと思いますけど(笑)。

(「戦後レジームの見直し」というのは、スローガンとしては簡明だけれど、実際にやると色々めんどくさそうで、本当にやるんだろうか?)