山根銀二と吉田秀和をめぐる3つの断章

[二人の大物音楽評論家のことなので、昭和の評論っぽいタイトルを付けてみました。]

1.

吉田秀和の欧米旅行は1953年12月から翌年11月。54年2月から55年11月まで『芸術新潮』に「街、雲、それから音楽」を連載して、1957年4月に新潮社から『音楽紀行』を刊行。同じ月に岩波新書の書き下ろし『二十世紀の音楽』を上梓した。

山根銀二の欧州・ソ連・中国旅行は1955年2月から翌年6月。9月までに原稿をまとめて、『音楽の旅』が岩波書店から年内に出た。

山根の外遊は吉田より一年以上あとだが、旅行記の出版は、山根のほうがおよそ半年早かったことになる。山根の『音楽の旅』は律儀な日記体。吉田の『音楽紀行』は、時間と場所が縦横に飛ぶ。50歳の山根銀二は等身大の初老の紳士が精力的に動き回る姿を、ジャーナリスティックな「取って出し」で書き、40歳の吉田秀和は、3年あまりの時間をかけて、「瑞々しい戦後の私」、青年と見まがう「僕」の自意識を彫琢した。

帰国してから1957年初めまで、吉田秀和は座談会に出るばかりで、他にはほとんど何も書いていない。『音楽紀行』と『二十世紀の音楽』に賭けていたということか。

音楽の旅―欧州・ソヴェト・中国 (1956年)

音楽の旅―欧州・ソヴェト・中国 (1956年)

吉田秀和全集(8)音楽と旅

吉田秀和全集(8)音楽と旅

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽

2.

宮沢縦一、遠山一行など、複数の音楽評論家がこの時期に外遊したが、音楽史の最も決定的な瞬間に居合わせたのは、1955年のマリア・カラスをスカラ座でみた山根銀二ではないか。ヴィスコンティ演出の「夢遊病の女」と「椿姫」、ゼッフィレッリ演出の「イタリアのトルコ人」、ベルリンではカラヤンと共演しミラノではデル・モナコと共演した「ルチア」……。

たが、山根銀二の外遊は、吉田、遠山、宮沢におけるような自分自身への投資、音楽評論家としての将来を賭けた「グランド・ツアー」ではなく、妻と自分へのささやかなご褒美、輝かしい経歴の「終わりのはじまり」になった。偶像や伝説ではない本物のマリア・カラス体験が、日本へ本格的にインストールされることはなかったようだ。

マリア・カラス 舞台写真集

マリア・カラス 舞台写真集

3.

吉田秀和の戦後最初の単行本になったシューマンの『音楽と音楽家』(1948年)および処女エッセイ集『主題と変奏』(1953年)の版元は創元社。

彼が三つの媒体、すなわち、「音楽展望」(朝日新聞、1971年3月15日から)と「名曲のたのしみ」(NHK、1971年4月11日から)と「今月の一枚」(『レコード芸術』、1983年1月号から)で安定走行する前から、ほぼ毎号寄稿しつづけたのは、新潮社の『芸術新潮』と音楽之友社の『音楽芸術』だった。

音楽之友社は、彼を三拝の礼で迎えて、のちの讀賣新聞(「音楽時評」1964年2月から1969年12月)や朝日新聞がそうであるように、自由に書く「場所」を提供した。

新潮社は、明確な発注で吉田秀和を振り付けた。

時代と併走する評論家像を鮮烈に打ち出す『音楽紀行』(1954-55年、単行本1957年)、中世から現代までカヴァーするレコードによる音楽史『わたしの音楽室(現代人のためのLP300選)』(1959年、単行本1961年)、初の本格的な演奏批評『現代の演奏』(1963-64年、単行本1967年)は、いずれも『芸術新潮』の連載である。

実験工房の滝口修造はソリッドなタイトルを示唆して1960年代の武満徹を創ったわけだが、「音楽評論家・吉田秀和」は、新潮社の「天皇」と呼ばれた斉藤十一によって創られた戦後作家のひとりなのかもしれない。

編集者斎藤十一

編集者斎藤十一

[付記]

  • (1) 山根銀二の「東京新聞1946-1961全批評」が読みたいです。「ザ・鴎外」や「ザ・龍之介」のような電話帳形式の「ザ・銀二」を希望。
  • (2) 吉田秀和は、主題別に周到に編集・加筆された単行本&全集を見ても、この人のなかで何がどうなっているのかよくわからないし、全集の解題には、詮索の意欲を削ぐ呪文の効果があるように思います。そういうものは一切無視して、本を個々の文章にバラして、それぞれの初出をクロノロジカルに並べると、かえって、作家としての実像がくっきりと見えてくる。白水社は、それに近いデータを持っているに違いないと思うのですが、いずれ、そうした「吉田秀和書誌」が表に出る日が来るのでしょうか?
  • (3) 『音楽芸術』連載のタイトルの変遷(話のとっかかりとして、国会図書館の雑誌記事の検索結果をまとめただけなので、各号タイトルが正確に現物の表記を反映しているかは不明)
    • 批評草紙 1 (1957/01) 〜 11 (1957/12)
    • 日本とその文明について 1 (1958/01) 〜 8 (1958/09)?
    • えちゆーど・え・ぽるとれ 1 (1959/02?) 〜 4 (1959/05)
    • ぷろむなあど・みゅうじかる (1959/06 〜 1959/12)
    • 創作と演奏のあいだで--ひとつの考察 1 (1960/07 [B5横組化した同誌への最初の寄稿]) 〜 5 (1960/10)
    • Cahier de Critique 1 (1961/01) 〜 11 (1961/11)?
    • [1962-1963 単発寄稿のみ]
    • Cahier Critique (1964/01)
    • かいえくりちつく (1964/03 〜 1964/12) [1964/05のみ「ゆぬ・ばがてる・すけるつあんど」]
    • [1965年1月、『批評草紙--日本を見る眼』刊行]
    • かいえ・くりちっく (1965/01 〜 1965/08?)
    • [1965年9月、『批評草紙 続』刊行]
    • 音と人 [対談] 1 (1966/07、園田高弘) 〜 15 (1967/10、柴田南雄)
    • [1968-1969 単発寄稿のみ]
    • 続批評草紙 1 (1970/01) 〜 11 (1970/12)
    • かいえ・どう・くりちっく 1 (1971/01) 〜 172 (1991/08)

「カイエ・ド・クリティク」という題をつけて雑誌『音楽芸術』に連載を書いてもう何年になるか、ちょっと覚えていないが、初めは『批評草紙』なんていう名前を使ったこともあるし、それから、途中で『カイエ・デュ・クリッティク』というふうにしてみたこともあった。

こういう変な、田舎くさい、洒落たような名前をつけたのは、自分では実は、批評をやっているということと、それからもう一つは『批評家の手紙』、だから「ド・クリティク」というより、「デュ・クリティク」あるいは「ダン・クリティク」というか、そういう意味で、両方がうまくいくような書き方はないかと日ごろ考えていたからである。(『吉田秀和全集』12、1979年4月20日発行、524-525頁)

全集の解題で著者が言っていることと実際が一致しているのか、現物と照合する作業は……誰かやってください。

  • (4) 全集第2巻の「主題と変奏」の書誌には、

[……](創元社版に収められていた「現代の音楽の諸問題」は、本全集からは割愛した)。(『吉田秀和全集 2』、白水社、1975年、452頁)

とあり、1977年に刊行された新潮文庫版の『主題と変奏』には、さらに具体的な説明があります。

なお創元社版に収められた「現代の音楽の諸問題」は、エルネスト・アンセルメの講演を敷衍したものなので除きたいという著者の意向により割愛した。(141頁)

『主題と変奏』は、全集版が出るまでは入手困難で、「古本屋の目録に高い値段がついている」(『全集2』、454頁)という状態だったそうですが、「現代の音楽の諸問題」は、全集版と文庫版が出た今も、オリジナルの創元社版を探し出さなければ読むことはできません。この文章の初出も不明です。

  • (5) 『主題と変奏』は、シューマン論とモーツァルト論に言及されることが多いですが(吉田はシューマンの『音楽と音楽家』を1948年、『モーツァルトの手紙』を1951年に翻訳している)、20世紀の新音楽に関する文章が2つ入っています。すなわち、上記「現代の音楽の諸問題」と「ベーラ・バルトーク」(初出は「ベーラ・バルトーク--現代人のための音楽-6-」、『芸術新潮』1952年6月号)です。そして「バルトーク」は、例のNHKでピアノ協奏曲第3番を聴いたエピソードで始まっています。

[……]私たち、二人の友人と私は、そのバルトークの「白鳥の歌」であるピアノ協奏曲のレコードを放送局の片隅でかけていた。[……]

柴田南雄の自伝によると、そのとき一緒にいたのは、柴田南雄、入野義朗、吉田秀和、小倉朗の4人らしいので、「二人の友人と私」では一人足りませんね(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110706/p1)。柴田が1949年のバルトーク論、小倉朗が1970年の『現代音楽を語る』で書いたエピソードの吉田秀和ヴァージョンです。まだ新音楽を勉強中で、十分に咀嚼していない印象のある吉田の文章は、柴田、小倉と読み比べるのも一興かもしれません。

  • (6) 吉田秀和『音楽紀行』の初出は、『全集8』では「街、雲、それから音楽」(『芸術新潮』1954年2月号から1955年11月号)とされていますが、国会図書館の雑誌記事を検索すると、『芸術新潮』1954年10月号までのアメリカ編が「カメラを持たない日本人」1〜8(3月号は休載)、同11月号から1955年11月号のヨーロッパ編が「ヨーロッパ音楽を訪ねて」1〜13となっています。これらの(サブ)タイトルが著者によるのか、編集部によるのかは不明です。雑誌連載と単行本と全集の異同がどれくらいあるのかも未調査です。どこで話を省略して、どこを膨らませて、どこで叙述の順序を入れ替えているか。細かく見ていくと、色々発見がありそう。

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

  • (7) 吉田秀和は、1954年4月23日に、スカラ座の「ドン・カルロ」でマリア・カラス(エリザベス)を聴いたようですが、特段のコメントはなし(『全集8』、168頁)。山根銀二もイタリアへ行くまで彼女について何も知らなかったようですから、当時日本で、彼女はまったく知られていなかったということでしょうか。「ドン・カルロ」では……、とも思いますし、縁がなかったのか。マリア・カラスの声や芝居は、ひょっとすると吉田秀和の好みではないのかも、とは思いますが、彼は結構、評論家として「取りこぼし」がありますよね。
  • (8) 吉田秀和が1954年のバイロイトで開幕のフルトヴェングラーが指揮する「第九」をはじめとする全演目を聴いていることは、3年前の同じ会場での戦後最初のバイロイト音楽祭での「第九」のライブ録音が繰り返し聴かれ語られていることや、同年にフルトヴェングラー(そして彼がアメリカで聴いたトスカニーニ)が亡くなり、後続の人たちが物理的に彼らの演奏を二度と聴くことができなくなったことから、彼を「歴史の生き証人」として紹介するときに不可欠のトピックになっているようです。(私たちは、最長老の音楽評論家を、まるで、サイレントの生き証人・淀川長治みたいに崇めてしまいがちです。)

でも、読んだ方はご存じだと思いますが、『音楽紀行』の「僕」は、バイロイトにおいて、「今回の旅行で一番烈しくゆさぶられた、といってもよいいかもしれない」(『全集8』、270頁)と認めつつ、ワーグナーの音楽史上の意義の解説に終始して上演自体の描写はなく、すぐに(全集版でバイロイトの記述は1頁に満たない)、ミュンヘンの話題へ移ります。

1950年代の吉田秀和は、演奏の講評ではない音楽評論を模索していたと思われます。この紀行文の「僕」も、(古典と歴史を踏まえつつ)ヨーロッパの音楽の現在に触れることを何よりも欲する設定になっているようです(おそらく彼は実際にそういう方針で旅の行程、どのオペラ・コンサートへ行くかを決めたのでしょう)。

バイロイト体験の段落は、

シェーンベルクを核心とする現代の表現主義的無調音楽が、ヴァーグナーから直接にはじまっているというのは、[……]未だに生きている真実なのだ。(『全集8』、270頁)

と締めくくられます。この本の「僕」は、バイロイトを「本場の名演奏家による泰西名曲の極めつき」として崇めたりしない、ちょっとしたツッパリです。