清く正しい音楽学会を創ったのは誰か?:『日本音楽学会30年史』(『音楽学』第33巻特別号、1987年)(2/3)

(4) 『音楽学』と音楽之友社

『日本音楽学会30年史』から、機関誌に関連する記述を拾ってみます。

例会、大会の活動が徐々に軌道にのっていったのに対して、学会設立当初から懸案とされてきていた機関誌は、出版社の問題がなかなかまとまらず思うにまかせぬ状態にあった。当初予定されていた創元社からの出版が白紙に戻されるなど紆余曲折の末、1953年、音楽之友社が出版元となることに決定し、1954年10月25日に創刊号が発行された。これは、A5版と現在より小さくタテ組のものであったが、2年後に発行された第2号からは、現在のB5版、ヨコ組のものになり、以後年1回ずつ定期的に刊行されることになる。(「30年史の概要」、3頁)

当初は創元社から機関誌を出版する話があったようで……、1950年代の吉田秀和が絡むところに、しばしばこの出版社の名前が出てくるのが気になるのですが(モルー著・柴田南雄訳『バルトーク』とか http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1)、結局は音楽之友社が引き受けたようです。

[8/21 追記]

創元社、気になるので調べてみました。大阪で本の小売りからはじめて、印刷、製本、出版へと成長した会社なのだそうです。東京の本の取り次ぎをしていた関係で、はやくから東京支社があり、昭和の初めには、「文芸評論家の小林秀雄を編集顧問に迎え、大阪とともに編集活動を行って」いたのだとか。

http://www.sogensha.co.jp/com_history/index.html

上記、創元社サイトを見ると、大阪の織田作之助『夫婦善哉』のみならず、谷崎潤一郎『春琴抄』、『芦刈』、『吉野葛』、『陰翳礼賛』、『猫と庄造と二人のをんな』、横光利一『機械』、川端康成『雪国』、中原中也『在りし日の歌』、三好達治『艸千里』など、昭和前期の名作が並んでいます。(きっと、近代文学をやっている人から見れば、創元社を知らないのはモグリですね。お恥ずかしい。)

戦後も、小林秀雄『無常といふ事』、大岡昇平『俘虜記』を手がけています。人脈的にも、吉田秀和と近そうです。音楽学会ができるというので、文壇に近い吉田が、筋の良い(と彼が考える)出版社を紹介した、ということだったのでしょうか。

ところが、

しかし1948年(昭和23年)、猛烈なインフレが出版界を襲い、倒産が続出しました。創元社でも、すでに独立採算制となっていた東京拠点を 1954年(昭和29年)「東京創元社」と別会社とし、厳しい経営環境を経験しました。現在ではともに独自分野の出版を続け、姉妹会社の友好は続いています。

【図書出版 創元社】 会社案内|創元社の歩み

音楽学会ができた頃は会社の経営が厳しく、とてもじゃないけれど、お金のない学会の援助ができる状態ではなかったのだと思われます。

(吉田秀和訳のシューマン『音楽と音楽家』やエッセイ集『主題と変奏』を出した創元社と、現在のミステリー・推理小説の東京創元社とは、こういう関係だったのですね。

音楽学はひとまず「人文学」の一領域だと思いますが、隣接する美学や美術史学と比べても、日本の音楽学=音楽学会は、文藝(評論)との間に一定の距離があるのが現状のように思います。原因をひとつに帰すことはできないでしょうけれど、学会の立ち上げ時に、お目当てであった文藝出版社とのすれ違いが、後述する音楽評論家との軋轢とも微妙に重なり合いながら、あったんですね。

『美学』が今もA5縦組で、『音楽学』がB4横組なのは、結構、根深い問題なのかもしれません。)

[追記おわり]

上記(3)で指摘したように、1953年6月頃(『音楽藝術』8月号発刊のタイミング)には、音友との話が大筋でまとまっていたと推測されます。そこでは、「紀要形式」となることが明言されています。

ところが、こういう証言もあります。

当初、学会成立を促進した人々の間でも、園部氏ほどではないにしても、学会に評論的な色彩を含ませようとする傾向がなお伏在していた。学会の機関誌の形態をどうするかについて、それがあらわとなった。さて小松清氏、土田貞夫氏、私が機関誌の編集委員にえらばれた。小松氏は、ベートーヴェン号とかローマン主義号というように、「特集号」の形式を時に入れて、一般並みに売れるようにしようという考えであった。私は、いま発足しかかっている音楽学会は、評論界からまず脱皮すべきである、という考えをもっていたので、機関誌は学術論文集として紀要形式をとるべきであることを主張した。

ところで、創刊号は早速出さねばならないことになり、小松氏と私との対立した意見はお預けのままで、小松氏は音楽之友社社長目黒三策氏と交渉され、当時の「音楽芸術」の型をとりあえずとることとして、実際の編集については、土田貞夫氏が実質的に担当し、創刊号はおくればせながら、学会創立から2年おくれて発刊された。昭和29年9月であった。[……]小松氏と意見があわなかった私は、創刊号については殆どタッチしなかった。[……]第2号編集のとき、機関誌の形式が再び審議された。こんどは私の紀要形式案が採用されて、今日に至っている。(神保常彦)(「学会回想録」、8頁)

神保先生は30年史の編集委員長でもあり、先に引用した「30年史の概要」が判型等にこだわっているのは、神保先生ご自身の体験をある程度反映した記述だと推察されます。機関誌の判型を当時の『音楽藝術』と同じA5縦組みにするか、現在のようなB5横組みにするか、という議論は、特集形式で一般向けにするか、紀要形式で評論から一線を画するか、という編集方針の対立とリンクしていたようです。

(1960年代に、今度は本家『音楽芸術』が3年間だけB5横組みになり、1964年から判型はB5のままで「縦」組みになりました。音楽之友社の雑誌の判型の変遷と、音楽学会機関誌の判型には、やはり、関連があったようですね。→ 参考 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20091012/p1

ただ、神保先生の証言は少し事実と食い違うところもあって、機関誌創刊号は、『音楽藝術』と同じA5縦組みではありましたが、先の告知記事にもあるように、特集形式ではなく、内容は紀要形式です。

(神保先生の回想に園部三郎の名前が出て来ますが、1952年1月の音楽学会発起人会で、先生は「園部三郎氏とかなりやりあった」のだそうです。先生側の言い分では、

園部氏は音楽学に対して積極的に懐疑的な態度であった。だから学会を評論性の強い方向へ持っていこうとした。少なくとも私にはそう思われた。私は当時、ドイツの音楽学会のような音楽学の研究に専心する地道な学問研究をする場ができることをひそかに望んでいたのである。(同上)

「評論vs音楽学」という対立の火種については、このあとでもう一度とりあげます。)

      • -

こうして、『音楽学』は音楽之友社と提携する形でスタートしましたが、その後の変遷に関する「30年史の概要」の説明は以下の通りです。

さて、8巻以来年4号の発行を続け、1974年には学術刊行物の指定も受けた機関誌であるが、1976年、音楽之友社から従来のような出版援助は行えないとの申し入れがあった。[……]結局、1978年には機関誌の編集、発行については音楽之友社が行なうが、販売をアカデミア・ミュージック株式会社に委託することになり、年間に80ページのものを3回発行していく運びとなった。(「30年史の概要」、5頁)

この記述から、音楽之友社との提携は、「出版援助」と言い換えうるようなものであったことがわかります。音楽学会が会員から徴収した会費で編集・発行のコストをすべてまかなっているわけではなく、その一部を音楽之友社が「出版援助」として引き受けていたようです。1978年にこの体制が見直された、というのが上の記述ですが、この見直し以前がどうだったかということについては、こういう証言が「回想録」に出てきます。

卒業後大学院に進んだ私は、同級生の海老沢敏君と一緒に音楽学会の機関誌『音楽学』の編集を担当する幹事を命じられ、音楽学会の裏方としてお手伝いをすることになりました。[……]当時の学会誌の編集は、今日のように学会の側にきちんとした査読の委員会があるという態勢ではなく、音楽之友社の好意にかなり寄り掛かっている部分が大きかったと思います。勿論、建前の上では学会が論文を集め、その素材を本にする作業を音楽之友社に依頼する形ではありましたが、実際の作業にあたっては、必ずしもその通りには行かないケースもありました。或るとき、音楽之友社側から手伝いに来てくれていた、というよりも実際的には編集の主役であった、「音楽芸術」編集長の(故)渡辺氏が、一本の電話を受けて、突如1ページ分を削って音楽之友社の広告を入れなければならない、と言い出したのです。[……](丹羽正明)(「学会回想録」、20頁)

かくして最終的には、渡辺氏の手で、「〈座談会〉ヨーロッパ音楽界の近況 -- 山根銀二氏を囲んで」の原稿が雑誌編集の要領で1ページ分短くカットされることになったのだそうです(同21頁)。まあ、これは、丹羽氏自身によると、「もう時効にかかっているかもしれませんが、こんな乱暴な処理が実は一度だけありました」ということなので、毎回の常態ではなかったのでしょう。(付記:この座談会は1956年11月1日発行の『音楽学』第2巻、64-73頁に掲載されています。)

[8/10補足]

上の丹羽正明の回想は、彼が東大を卒業した翌年に編集を手伝った『音楽学』第2巻に関するものですが、前後の巻を見ると、音楽之友社は第1、3、4巻の見返しなどの目立つ箇所に複数、分量にして1〜2頁相当の広告を掲載しています。ところが、第2巻は途中の15頁に全面広告があるだけです。(同巻の裏表紙とその見返しには、アカデミア図書株式会社、国際出版社、日本楽器、アルヒーヴレコードそれぞれ半面の広告が並んでいます。)

丹羽の書き方だと、なにやら、上層部(営業?)からの電話で、友社から送り込まれた編集者が強引に広告を1ページ増量したかのようですが、おそらくそうではなく、本来掲載する手筈になっていた自社広告を入れ忘れたことが校了段階でわかり、電話確認の上、やむなく座談会の記事を短くして、広告スペースを作ったのだと思われます。(山根銀二の座談会は、カットしても10頁ある長大なものです。他の学会員と違って、山根は音楽之友社とツーカーの間柄なので、カットの埋め合わせはどうにでもなる、という判断だったのでしょう。)

学会を初期に「若手」として支えて、のちの大成された先生方は世俗にまみれた大学外に不審の目を向ける傾向が強いのですが(この感じは、往年の演奏の「大先生」たちが周囲の付き人に極端に厳しかったのとちょっと似ている……)、でも、現物の仕上がりから状況を推測すると、仕方がなかったんじゃないでしょうか。しかも、第2巻は、判型がB5横組みに変わった最初の巻ですから、予測できないことが起きても無理はない。

なお、丹羽の回想には、「みすず書房」の広告を「みみず書房」と誤植して広告料をもらい損ねた失敗談がありますが、これは、第6巻第2号61頁で、株式会社「むじか」が「むかじ」となっているのを指すと思われます。第1巻から第8巻あたりまで目を通しましたが、みすず書房の広告は見当たりません。

[8/10補足おわり]

むしろ私には、「音楽藝術」の編集スタッフが編集作業を仕切っていた、というその光景が、目に浮かぶ気がしてリアルだなと思いました。(おそらく、東京藝大の音楽学会の部屋へ来ていたのでしょう。)

『30年史』の巻頭には機関誌創刊号の最終頁の写真があり、「編集後記」に次の文面が見えます。

特にこの犠牲的出版を快諾して頂いた音楽の友[ママ]社々長目黒三策氏および実務にあたられた同社の中曽根松衛氏、高田博史氏にあつく御礼申し上げます。[……](土田・皆川記)(『音楽学』創刊号、1954年、162頁)

わたくしが、『音楽藝術』でずっと気になっている中曽根松衛氏らが入っていたようです。機関誌創刊号は、『音楽藝術』と同じ編集スタッフが同じ判型・体裁で作ったんですね。

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それからもうひとつ、丹羽氏の回想でなるほどと思ったのは、大学院生が学会幹事として機関誌編集を手伝う慣習が学会創立当時からあったらしいということです。内容が紀要形式であるにせよ、音楽之友社『音楽藝術』の編集スタッフと直接一緒に仕事をするわけですから、下世話な言い方をすれば、音楽の世界で生きていこうとする若い院生にとって、これは音楽ジャーナリズムへの強いコネクションだっただろうと思います。

ある時期から、機関誌編集の幹事に関東以外の支部の院生も加わるようになっているはずですが(少なくとも、私が阪大院生だった頃には何人かの後輩が機関誌編集の幹事に駆り出されていた)、私が見聞した範囲では、関東以外の幹事の仕事は、全国大会のときに、質疑応答の録音とテープ起こしをやる程度でした。機関誌編集の実務を行う学会幹事職(=音楽之友社へのコネクション)は、事実上、関東支部の院生さん(そして機関誌編集室は長らく東京藝大に固定されていたので、東京藝大の院生さんが次第に主力になっていった印象がある)の「役得」であったと見られても仕方がない一面があったように思われます。

(こういうことを指摘するから「学会批判だ」と言われるのでしょうけれど、こうやって院生さんが学会実務に関わるとともに、音楽業界へ入る糸口を掴む、というようなキャリア形成は、加藤学部長の元で、楽理科設置と音楽学会創立がリンクしていたがゆえのことであり、その意味では、「思惑通りの成果」と見ることだってできるはずです。

「音楽学会がどのような団体としてスタートしたか」を考えるときに、先の神保先生の文章に出てきた「ドイツの音楽学会のような地道な学問研究の場」という理念と、「楽理科卒業生のためのキャリア・パス」という実践的な効用は、両輪のようなものだったのではないかと思います。)

(5) 音楽評論家と音楽学会

音楽学会は設立後しばらく、陰に陽に、評論家とどうつきあうか、に苦慮していたらしき形跡があります。

(a) 発起人会での園部三郎と神保常彦の対立

『30年史』に掲載された音楽学会記録ノートの写真によると、1951年(昭和26年)12月に発送した学会発起人候補者への依頼状に受諾の返事があったとされているのは、以下の22人(順不同)。

瀧遼一(東京水産大学)、桂近幸(茨城大学)、園部三郎(東京工業大学)、大築邦雄(横浜国立大学)、吉田秀和(中央大学)、相陸奥男、中山真一郎(愛知大学)、林幸先(鹿児島大学)、長広俊雄(京都大学)、岸辺成雄(東京大学)、小松耕輔(お茶の水大学)、小泉治(明治学院大学)、結城錦一(東亜大学)、張源祥(関西学院大学)、吉田辰雄(東京学芸大学)、筧潤二(日本大学)、小松清(東京大学)、辻壮一(立教大学)、加藤成之(東京藝術大学)、土田貞夫(東京藝術大学)、長谷川良夫(東京藝術大学)、吉川英士(東邦音楽大学)

この段階で、音楽評論家の園部三郎、吉田秀和の名前が発起人に見えます。そして翌52年1月12日に第一回発起人会が21名の出席で行われて、この席で神保先生が園部とやりあったらしいことは、(4)で引用した通りです。このやりとりは、批評と研究の差異が学会運営上の「火種」になりうることが明白になった最初の出来事と位置づけることができそうです。

(b) 厳格な会則

「30年史の概要」は、会則に言及して次のように書いています。

正会員の資格として「イ、学士であって音楽学を専攻するもの(卒業論文が音楽学であること) ロ、音楽学を専攻する旧制大学院学生(新制大学院学生は2年以上の教程を要する) ハ、大学で音楽学を教授し、或いはした者 ニ、音楽学を専攻し、業績ある者、(以上、イ、ロ、ハに該当する者は自動的に正会員になり得、ニに該当する者は、理事会の審査を要する)」と規定されているのはいささか厳格にすぎるとも思われるが、これは、まだ音楽学の学問性が世に十分理解されていなかった当時の学会として、ディレッタントやいわゆる評論家を避けようという配慮があったためと思われる。

どうして文中の「評論家」の語に「いわゆる」がくっついているのか、なんだか、「評論家」は、口にするのがためらわれる言葉であると思われているかのようで、妙な感じですが、ともあれ、音楽学会は、ディレッタントと評論家をそのままで正会員とは認めない方針で発足し、今日に至っているということのようです。(学会によって、このあたりの間口を広げるか、閉ざすか、という方針は千差万別ですが、音楽学会はこうだ、ということですね。)

(c) 音楽評論家の公開講演の是非

そして、大宮真琴氏、皆川達夫氏とともに、幹事として実務に奔走していた若き日の服部幸三先生が登場します。

服部幸三先生は、回想のなかで、まず、1952年11月の京都における「秋季大会」(のちに「第2回全国大会」とカウントし直された集まり)について、次のような裏話を披露します。

京都大会に関しては、当初山根銀二氏、吉田秀和氏などに公開講演をお願いしては、という案がありましたが、結局は立ち消えになりました。評論家対音楽学者の肌合いの違いは、学会設立当初から微妙な軋みを生じていたように思います。(「学会回想録」、10頁)

明言されてはいませんが、大会の準備過程で、音楽評論家の講演は音楽学会にふさわしくない、という意見があったのでしょうか? 大会記録をみると、結局、「秋季大会」は1952年(昭和27年)10月27日、同志社大学栄光館にて、学会員の辻壮一先生と張源祥先生の講演で開幕したようです。

[8/13 追記]

音楽評論家の公開講演を提案したのは、先の神保先生の回想で学会誌での特集形式を主張したとされる小松清先生だったようです。『30年史』の「物故会員のプロフィール」の小松清の項目で、皆川達夫が次のように書いています。

純学問的方向にあった音楽学会のなかでは、しばしば御意見が孤立されることもありました。名のしられた評論家に学会大会の講演依頼されたり、学会誌にシューマンやラヴェルやらの特集を企画されて、〈学会はペン・クラブではない〉ときびしい批判をうけておられましたが、しかしそれも発足したばかりの音楽学会をいちはやくひろく世に知らせようという善意から発していることは、誰の目にも明らかでした。(46頁)

皆川先生は、学者と評論家の差異を、服部先生のように「肌合い」と気性・性格へと帰着させるのではなく、学会とペン・クラブの違いという組織論の視点を示唆しています。また、一般雑誌風の特集形式や評論家との提携が、評論と学問の差異への無理解ではなく、学会の外部へのアピールという一定の積極的な意味があったことを指摘します。どちらも、事態を立体的に考察するための重要な指摘だと言えそうです。

また、細かい言い回しの問題ですが、ここで、「講演依頼“された”」となっているのは、ちょっとドキリとするところです。[ケース1] 吉田・山根の両評論家に講演を依頼しようという「発案」(上記、服部の言い回し)が学会内部に出て、そのまま立ち消えになったというのであればまだしも、[ケース2] 実際に講演依頼が両評論家に「されて」おり(上記、皆川の言い回し)、それがあとから撤回されたのであれば、ちょっとした不祥事です。(しかも、[ケース3] 正式に決まる前に小松先生が二人の評論家と既に話をつけてしまっていたとしたら、学会の会議は、険悪な雰囲気になったのではないかと……。)事実はどうだったのか、『30年史』だけでは、はっきりしません。

でも、仮に[ケース3]であったとしても、旧制高校でおおらかに育った人だったようですから、先生は意に介さなかったかもしれませんね。ご本人が平然として、周囲が青くなっている光景が目に浮かぶようです(こういうのって、どの世界にもありがち)。

そして余談ですが、皆川先生は、そんな小松先生をとても尊敬していたようです。

小松氏は、いつも周囲の人びとをあたたかかくつつむ何かを身につけておられました。当時10代末のわたくしには、年をとったらあのようなお年寄りになりたいと、つくづく思われたものでした。それだけに氏の御葬儀のおりに音楽学会関係者の参列がきわめてすくなかったことを、わたくしは今でも口惜しく思われたなりません。(47頁)

『日本音楽学会30年史』のなかで、私は当初、前のほうにでている会員の回想録から主に情報を拾っていたのですが、後ろのほうにある「物故会員のプロフィール」も、それぞれの先生方の思いのこもった文章であることに、あとで気づきました。

  • 石倉小三郎 1881-1965(執筆者:仲芳樹)
  • 加藤成之 1893-1968(服部幸三)
  • 小松清 1899-1975(皆川達夫)
  • 張源祥 1899-1974(谷村晃)
  • 中瀬古和 1908-1973(鷲淵郁子)
  • 相沢陸奥男 1909-1964(小山郁之進)
  • 金田茂 1911-1979(高橋惇)

服部先生による加藤成之の回想は、すでに(1)で引用しました。谷村先生による張源祥の回想については、(7)をご参照ください。作曲家の中瀬古和(同志社女子大学)については、アメリカでヒンデミットに学んだ女性作曲家という以上の具体的な情報がなかなか見つからなくて、以前から気になっています。

[追記おわり]

(d) 山根銀二と服部幸三の一時間の激論

この京都大会の一年後、「第4回全国大会」で決定的な事件が起きたようです。服部先生の回想の引用を続けます。

その軋みが、ついに爆発したのが、昭和28年11月8日から9日にかけて、東京芸術大学で行われた大会の研究討論会の席でした。[……]とくに話題になったのは、岸辺成雄氏が発表された「世界音楽史の構造試案」をめぐる議論でした。ところが、その席に評論家、批評家として当時の論壇を牛耳っていた山根銀二氏が突然現われ、形式的には岸辺成雄氏を擁護する姿勢をとりながら、音楽学者などというものは音楽の実体に弱く、世界の情勢を何も知らない、こんな学会は無用の長物だとばかり、滔々たる学会批判を試みたのです。ここは一歩も譲ってはならぬと考え、およそ1時間も議論を戦わせました。[……]討論会のあと、大会事務のために使わせていただいていた学部長室にもどった私は、そのまま十二指腸潰瘍の発作で倒れてしまいました。いわゆる評論家のタイプの方が、学会の公けの席にねじ込んだのは、これが最後であったと思います。(同上)

山根銀二は、1945年末に「東京新聞」紙上で山田耕筰の戦争犯罪を糾弾する論争を展開して、翌年から同紙の音楽批評を担当。1950年に武満徹の「二つのレント」を「音楽以前」と評した逸話など、1953-1954年の欧米旅行後に吉田秀和が台頭するまで、たしかに「当時の論壇を牛耳っていた」印象のある存在だったようです。戦前から活躍する47歳の大物評論家に、当時29歳の若き藝大講師が一歩も譲らずに反論する武勇伝です。(^^)

ただし、上記(3)でご紹介したように、この「白熱の議論」の具体的な内容は、全国大会という公然の場での出来事であるにもかかわらず、不明です。

『音楽藝術』で内容を掲載すると予告されながら、実際には研究討論会前半の美学部門の討論だけが掲載されて、後半の歴史部門の岸辺成雄先生の発表をめぐるやりとりは、同誌に掲載されませんでした。はたして、誌面・紙数の都合等によるのか、山根・服部論争の内容が音楽雑誌にふさわしくない何かを含んでいたのか……。山根銀二は、当時、この雑誌の顧問ですし、まもなく音楽学会は自前の機関誌を創刊して、『音楽藝術』が世話を焼く義理がなくなるタイミングでの事件ですから、ややこしい話をうやむやにしたようにも見えます。

山根銀二側がこの件について何か書いているのかどうかも、よくわかりません。少なくとも『30年史』には一方の当事者、服部幸三のかなり攻撃的な口調の回想だけが載り、山根は、「当時の論壇を牛耳」り、学会の場に「突然現われ」、慇懃無礼な態度で(「形式的には岸辺成雄氏を擁護する姿勢をとりながら」)、「滔々たる学会批判を試み」る絵に描いたようなワルモノです。

      • -

服部幸三と同じく学会幹事としてこの大会の運営にも関わっていたと思われる皆川達夫先生は、『30年史』でこの一件に次のようにコメントしています。

当時は音楽学というと、音楽の実際とは何の関係もない不要かつ不毛のタワ言か世迷い言という受けとり方が一般的で、作曲家も演奏家も、いや音楽評論家までが露骨に反感をしめすことがすくなくなかったのです。

〈オンガクガクなどと、アゴがガクガクする語呂の悪いきたない言葉を平気で使っていること自体が、あの連中の耳の悪い証拠だ〉と言ったある作曲家、〈バッハをチェンバロで弾けとは何事です。バッハはピアノで弾くべきです。そういうことを言うのが音楽学者の悪いクセだ〉と怒りだしたある音楽評論家。……前に服部幸三氏が記しておられた山根銀二氏との大立廻りも、ひとえに音楽学にたいする当時の偏見と反感とが背景にあったわけです。(「学会回想録」、11頁)

事件をその時代背景から説き起こそうとする皆川先生の態度は、いかにも歴史家。服部先生が、のちの藝大楽理科主任として、そうした作曲家や演奏家と学務で闘う立場になることを思うと、このお二人の対照、そして気質がまったく違うのに、皆川先生が服部先生をさりげなくかばうような関係には味わい深いものがあります。(そして服部先生が1960年代に楽理科を東大閥で固めようとしたのは、楽理科が楽壇において四面楚歌である、という一種の被害妄想があったのではなかろうか、ある種の強迫観念に駆られた症例だったのではないか、とも考えてしまいます。→参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110515/p1

でも、それじゃあ、山根銀二の側に「言い分」はなかったのでしょうか?

ワンクッションおいて、まず音楽之友社の立場を考えてみると、学会への支援はおそらく「先行投資」だと思います。学会の連中は、若くて優秀な書き手を育ててくれるかもしれないし、売れる音楽書を書いてくれるかもしれないからです。異例に大きな誌面を割いて座談会を2度も掲載したのは、そのような思惑込みでの判断だったのではないでしょうか。(学会機関誌への広告掲載を本社が厳命したのも、友社が、学会への支援において、「商売」を決して忘れていないことを感じさせます。)

そしてこのような動きは、それまで音楽雑誌に執筆してきたフリーの音楽評論家にとって、注目せざるをえないことだったはずです。いずれ、「学問」を収めた若い連中が出てくるかもしれないし、どうやら音楽之友社は、その可能性を計算に入れているらしい。しかも実際に、雑誌に大きな記事がドカドカと出てしまったのですから……。

なるほど、まだできたばかりのヨチヨチ歩きの学会側から見れば、評論家たちが、力に物を云わせて「ねじ込んで来た」と見えたのかもしれません。「地道な学問の場」を夢みる神保先生のような立場からすると、悪童に楽園を荒らされるような感じがあったかもしれません。でも、そのように一方的に自分たちを「無実の被害者」と表象する学会の方々は、自分たちが出版社と「持ちつ持たれつ」の関係を作らねばやっていけない存在であり、その甘やかされた有り様が、外からどう見えるかということに対して、無自覚すぎたのではないでしょうか。

「若者文化」は戦後の産物と言われることがありますが、音楽学会創立当時の音楽之友社との関係は、どこかしら、「甘え上手な若者」のようにも見えます。そしてそれは、前のエントリーであれこれ推理した20世紀音楽研究所の周囲からの支援のされかたとも、どこか共通するところがありはしないでしょうか?(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110806/p1

[8/11 ここからの記述を改稿]

ただし、(3)でご紹介した『音楽藝術』1953年3月号の音楽学会創立時の座談会は、石倉小三郎が明治・大正期に遡って日本における洋学研究の歴史を振り返るなど、地に足の着いた堅実な話題に終始しています。音楽学会の旗揚げは、たとえば早坂文雄や清瀬保二を苛立たせた1949年に柴田南雄のバルトーク論などと比べると、旧世代への無理解や切り捨てのそぶりのない、穏当なものです。

また、1956年の『音楽学』第2巻には、(4)で引用した丹羽正明の回想にあるように、山根銀二を囲む座談会が掲載されています。正確なタイトルは「日本の音楽学の課題 -- 帰国した山根銀二氏を囲んで海外事情をきく --」、参加者は野村良雄、吉川英士、土田貞夫、岸辺成雄。編集後記に、幹事だった丹羽正明の文責で次のような説明があります。

○巻末に掲載の座談会は、ヨーロッパ、ソ連及び中国を視察して最近帰国された本学会会員山根銀二氏を囲んで行われたもので、日本における音楽学研究態度の反省に何らかの形で役に立つのではないかと思います。(『音楽学』第2号、1956年、72頁)

「日本における音楽学研究態度の反省」という言い方は、暗に1953年の研究討論会での山根・服部論争との関連を示唆しているように思われますし、唐突な座談会企画なのに特別な説明がなく、「何らかの形で役に立つのではないかと思います」と、いわば“棒読み口調”で受け流すのは、かえって妙な感じ。「手打ち」の席が設けられたということなのでしょうか。

長大な座談会記録の前半では、山根がヨーロッパ、ソ連、中国の旅程を延々と事細かに語っています。一般の商業雑誌ならともかく、学術雑誌(会員には留学経験者が少なくない)に、こういう情報が求められているのかどうか。読みながら、なんだか「さらし者」になっているような感じがしました。

座談会後半では、西洋に追いつき追い越せ、という動きが一段落したあとには、再び「日本」や「東洋」が問題になるはずだ、という話題で参加者の話が弾んでいます。山根銀二は、当時、日本音楽や中国の動向に関心を寄せていたようで、日本音楽の吉川先生、東洋音楽の岸辺先生と意気投合しているような文面になっています。

これが「手打ちの席」なのだとしたら、山根に調子を合わせて、機嫌を取っていると読むこともできるかもしれません。編集後記の「何らかの形で役に立つのではないかと思います」という棒読みは、こうした議論が当時の“気鋭の若手”にまったく響かなかったことを伺わせます。

しかし、改めて思い返してみると、山根・服部論争の発端は、第4回大会での岸辺成雄の発表です(1953年11月8日、岸辺成雄「世界音楽史の構想試案」)。発表後の研究討論会の席に山根銀二は「突然現われ」たそうですから、彼は発表そのものを聞いていないのでしょう。そして服部幸三は、山根の「岸辺成雄氏を擁護する姿勢」が「形式的」だった(真意は違った)と書いていますが、上の座談会で岸辺と山根が語り合うのを読むと、当人同士の話は、ちゃんとかみ合っています。

もしかすると、山根銀二は、『音楽藝術』で適宜報じられていた音楽学会の動向に素直に関心を抱いていたのではないか。だからこそ、多忙なスケジュールを割いて、(岸辺の発表には間に合わなかったけれども)上野の東京藝大へ足を運んだのではないか。発表そのものを聞かずに発言するのは確かに不作法であり、多少ピントのぼけた話をしてしまったかもしれないけれども、自身も東洋音楽に関心を持っていたので、率直に「岸辺成雄氏を擁護」しようとしたのではないか? 売り言葉に買い言葉で、1時間も言い争っていれば、それだけではないところへ話が飛び火したかもしれませんが、服部幸三が噛みついたのは、山根銀二を誤解して、世間に流布するダーティーなイメージ(山根は演奏会を聴かずに批評を書いた、という風説がまことしやかに囁かれていたらしい)に惑わされた勇み足だった可能性がありはしなかったのでしょうか?

真相はどうだったのか? 「山根・服部論争」の記録が、もし残っているのであれば、是非公開して頂きたいです。

(つづく)