清く正しい音楽学会を創ったのは誰か?:『日本音楽学会30年史』(『音楽学』第33巻特別号、1987年)(3/3)

(6) まとめ

わたくしが阪大の3年生になって音楽学の研究室に出入りするようになったのは1986年ですから、年表と照合すると、学会の名称が変更された年ですね。大学院に進学して、日本音楽学会に入会を認められたのは、1988年の春だったはずです。『30年史』は1987年の機関誌特別号ですから、わたくしの入会は、タッチの差でこの本をゲットし損ねるタイミングだったようです。

『音楽学』のバックナンバーは、いちおう大学図書館と音楽学の資料室兼助手室にありました。どちらもかなり欠号が多かったのですが(阪大の代々の助手さんはそういうのを管理するのがお得意ではなかったようで……)、『30年史』は助手室に置いてあったのを学部生か院生の頃に読みました。「山根・服部論争」のくだりをよく覚えています。

でも、わたくしは、そんな風に日本音楽学会の歴史を知るか知らないかの頃、あっという間に岡田暁生・伊東信宏両先輩に「拉致監禁」(笑)され、今では多くの人が彼らの著作で知るようになった華麗にぶっとんだ音楽観に「洗脳」(笑)されて、いわば「ばらの騎士の夢」にまどろみ続けるような十数年を過ごすことになってしまいました。一方で、阪大音楽学研究室は、1990年の国際シンポジウムに向けた膨大な業務に飲みこまれて、シンポジウムが終わると恩師・谷村は退官。1年ドイツへ留学して1992年に戻ってくると、研究室は教官・学生ともに一変していました。

1996年から関西の音楽批評の仕事を少しずつさせていただくようになって、「夢から覚める」にはかなりの時間がかかってしまいましたが……、縁あって戦後日本の洋楽を調べるようになり、気がつけばぐるりと一周して、日本音楽学会とは何だったのか、考え直してよさそうな巡り合わせになっていると感じております。人生スゴロクで、もう一回「日本音楽学会」のマス目にコマが止まった、みたいな感じでしょうか(笑)。

[8/13 PM9:00 追記]

それから、書き忘れていましたが、わたくしは修士二年目だった1989年度に一年間だけ、日本音楽学会の常任委員会幹事でした。阪大の谷村晃先生が学会会長だった1983年から1989年まで、会長直属の執行部に相当する常任委員会は大阪大学音楽学研究室にあり、関西支部の先生方が会計等の常任委員でした。わたしが幹事になったのは、その最後の年です。

メインの幹事は当時博士後期課程だった伊東信宏さんで、私と、もうひとりの同学年の女性(その後修士論文を出して研究を止め、新聞社へ就職した)は、伊東さんを補佐するサブの位置づけでしたが、一年間、ほぼ月一回阪大で行われた常任委員会のほか、全国大会・総会に向けて4つの支部の支部長の先生を阪大にお招きした会議があったり、全国大会(兵庫教育大学が幹事校で、会場は姫路だったと思う[←というのは年代が合わず記憶違い、この年の全国大会は関西ではなかったようです、失礼しました])で総会の前に学会のすべての委員の先生が集まる会合があったり、というようなことをひととおり「見学者」気分で見せていただきました。年度末の常任委員会には、引き継ぎを兼ねて礒山雅先生(次の会長は海老澤先生に決まっていて、常任委員会は国立音大へ移ることになっていた)がオブザーバーとして参加されて、ああ終わりなんだな、と思ったものでした。

この間も学会本部は東京藝大のままで、必要な書類・情報は本部と常任委員会がやり取りすることになっていて、本部の窓口は臨時職員の楢崎洋子さんでした(当時、学会の「臨時職員」は本部の楢崎さんだけで、支部に職員を置くようにはなっていなかった)。楢崎先生とは、実はいまだに一度もちゃんとお話をしたことがないのですが、藝大の本部の人として、お名前だけは、博士論文が本になる前から一方的に知っていました。

武満徹と三善晃の作曲様式―無調性と音群作法をめぐって

武満徹と三善晃の作曲様式―無調性と音群作法をめぐって

武満徹 (作曲家・人と作品シリーズ)

武満徹 (作曲家・人と作品シリーズ)

当時のわたくしは、岡田暁生の「夢の論理」に呪縛されており、しかも、伊東さんの指導・監視下(?)で仕事をするのですから、「雑用などやっていたら、まともな学者にはなれない」という岡田理論が頭にこびりついて、こういうことに身を入れてはならないのだと念じつつ、それでも、初めて知る世界ですから色々なことが興味深くもありました。

本部と執行部がここまではっきり分離した時代は、学会の歴史のなかでも異例な時期だったのかもしれませんし、わたくしは、1年間「見学」しただけです。そのあと日本音楽学会は、阪大からスッと消えてどこかへ遠くへ行って(戻って?)しまいましたし、会長だった谷村先生も2年後にはいなくなってしまいました。

あれは、何だったんだろう、という思いも、音楽学会にわたくしがこだわる遠い動機ではあるかもしれません。

[追記おわり]

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このところ、この場で音楽学会の動静に言及することが続いていますが、音楽学の人たちが批評の仕事をしたり、ジャーナリスティックな場に出ていこうとする動きを目撃すると、わたくしは、ほぼ条件反射的に「山根・服部論争」を思い出してしまいます。

音楽学会はその出発段階で「批評と一線を画す」という進路をインプットしていたはずだ、あれはウヤムヤになったのか、どこかの段階で進路変更が宣言されたのか、あるいは今日においても、音楽学者のメディア露出は邪道なのか、いったい、どうなっているのだろう、という戸惑いが常にあります。岡田暁生的な「ばらの騎士の夢」の世界には、彼の音楽鑑賞論や批評をめぐる様々な言動に見られるごとく、独特の「夢の論理」があるわけですが、それは彼本人以外には使えないので、夢から覚めてしまえば、自前でこのあたりの説明を見つけないと仕方がない。

夢から覚めてしまいますと、メディア露出(への欲望)を良い/悪いと判断する以前に、そのようなことを請い願う人が音楽学者のなかから出てくる理路とメカニズムがそもそも「意味不明」です。だから、あれこれ詮索してしまいたくなってしまうのです。

「山根・服部論争」と、そこに至る学会創設当時のあれこれを整理しておいたほうがいいんじゃないか。それは、わたくし自身にとっては、「ばらの騎士の夢」に遊ぶ直前のところへ戻っての「現場検証」だったのかもしれません。

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(1)で、音楽学会は東京藝大楽理科卒業生を音楽業界へ送り出す一種のキャリア・パス[および「大学」化した音楽学校の学知的側面を内外にアピールする取り組み]として設計されたのではないか、と書きました。そして(3)と(4)で言いたかったのは、そうした当時の藝大首脳陣の思惑が、楽譜・楽書の出版を生業とする音楽之友社の目黒三策社長の経営戦略と(かなりの程度)合致していたのではないかということです。

その一方で、実際に音楽学会を舞台に活躍することになる方々の間には、神保常彦先生や服部幸三先生の発言に顕著なように、「学問を批評から自立させること」、「地道な専門知に邁進すること」という理念が強固に意識されていたようです。両先生をはじめとして、皆川達夫先生、少し遅れて海老沢敏先生や小泉文夫先生など、大正末から昭和ヒトケタの生まれで、これから世に出ようとする20代で音楽学会の創立に立ち会い、音楽学の各分野を代表する学者になった方々は、個人差や分野ごとの諸事情による差があるにしても、おおむね、そのようなエートスを共有していたと見ていいのではないでしょうか。

こうした「昭和ヒトケタ世代」は、現役音楽学者にとって、直接の師匠であったり、師匠の師匠=いわば「大師匠・大先生」であり、客体視するには畏れ多いところが今もありそうな気はしますが、でも、そういうときこそ「社会科学」の出番なのだろうと思います(笑)。

残念ながら、わたくしは社会科学のかっちょいいタームを華麗に使いこなす技能を有していないので、極めて泥臭い言葉遣いで書くことしかできませんが……、

学会の成立経緯を見ていくと、音楽学会は、こうした「昭和ヒトケタ世代」が創ったというよりも、東京藝大と音楽之友社によって「創られた」と見るほうが整合的であるような気がしてきます。「昭和ヒトケタ」とそれに続く世代は、加藤成之学部長と目黒三策社長が整備した人材育成の苗代で、スクスクと育てられた人達であり、その高潔な理念には、どこかしら人工培養された側面があったのではないか、と思われるのです。

(兆候的なのは、この世代の先生方が、しばしば「音楽学会には自由でリベラルな気風があった」と回想していることです。音楽学会の運営会議では、先生方が若い幹事や院生にも発言の場を与えてくれた、等々のエピソードが披露されています。これは、ひとつには、若い世代が「戦前の封建体質」(と当時しばしば表象されたと言われている)を脱却する未来への希望とされていた時代風潮の反映かもしれませんが、もっと具体的に、新しい人材を育てることが、音楽大学にとっても音楽出版社にとっても、音楽学会というシステムの最大のミッションであり、だからこそ、若手研究者は有意に「ちやほやされていた」可能性がありそうです。)

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ここから、「創られた神話」の告発へ向かうことを私は好みません。(やりたい人は、そのような視点から「音楽学者・服部幸三の研究」をやってもいいと思うけれど、そういうのは、生産的であるより、それこそ「内ゲバ」みたいになって陰惨だと私は思う。むしろ、1960年代の世界的な「バロック音楽ブーム」=チェンバロのような歴史的楽器とイ・ムジチやバイヤールの弦楽合奏のイージー・リスニング的な流行とは何だったのか、古楽運動はこれとどう絡むのか、というテーマに服部先生の言説を組み入れるほうが、論文としてはスマートだろうと思います。)どちらかといえば、私は音楽学会を「創った」人々のほうに興味があります。東大総長を祖父にもつ加藤一族とは何なのか、あるいは、再三書いておりますが、音楽之友社とは何なのか、そして、山根銀二は本当に「ワル」だったのか、といったことです。

(園部・山根を学会が警戒したのは、本当は評論家との軋轢以上に、左翼思想を恐れていたのではないか、という気がするのですが、この件は、私にはまだよくわからないことが多すぎるので、検討を保留します。)

音楽批評・山根銀二の時代―山根銀二著作集

音楽批評・山根銀二の時代―山根銀二著作集

それから、制度設計というのは何でもそうですけれど、藝大と音友の蜜月は功罪相半ばだろうとは思います。

藝大と音友が用意した「苗代」に安住する分には、音楽学は幸福で居心地のいい楽園です。そして今でも、楽理科卒業生のそのようなライフ・プランはある程度可能なのだろうと思います。おそらく、このキャリア・デザインを死守できるかどうかが、藝大楽理科系音楽学の存亡を賭けた生命線なのだろうと思われます。

でも、吉見俊哉『大学とは何か』を読むと、芸術の高等教育は、戦後の制度で「大学」化しましたが、大学としては特殊であるなあと思わざるを得ません。(音楽学校の「大学」化の是非は戦後の音楽雑誌でも時々話題になっていました。)それから、音楽之友社は、楽譜・学書の分野では老舗ですけれども、出版業界全体のなかでみると、決して事業規模は大きくありません。音楽大学や音楽出版には、大学一般や出版一般とは違う特殊な事情・慣習等がありそうです。そしてそのような「業界」へ制度設計が特化する傾向が強いがゆえに、日本の音楽学=日本音楽学会には、ある種の「ローカル・ルール」が形成されているように思います。

(実は、この件でどうしても書きたいトピックがひとつあるのですが、これは別の機会に。)

そして、楽理=音楽学が国内の音楽大学に標準装備されるにつれて、日本音楽学会の発想法が、(ローカル・ルールを含めて)作曲や演奏など、音楽業界全般に知らず知らずのうちに広がっているようにも思われます。

「日本の音楽家は、海外の音楽家に比べて、社会的に通用する言葉を発する力が弱い」と言われることがあるようです。まずは、このような認識自体が正当なのかどうか、慎重に吟味する必要があるとは思いますが、もし、本当にそういう「言語運用のひ弱さ」を日本の音楽家が抱えているとしたら、音楽学者は、音楽家が学内で接する最も近しい「先生」なのですから、責任の一端があったり、同様の「ひ弱さ」を日本の音楽学が抱えているかもしれない可能性を反省していいのではないでしょうか。

音楽学者は、しばしば、「演奏や作曲の人達が音楽学を軽視するのはけしからん」と、他責的な口調で演奏や作曲の同僚のことを愚痴ります。でも、私には、こうした音楽学者の音楽家批判が、(5)で述べたような、音楽学者の評論家批判と同型のレトリックであることが気になっています。まだ具体的に分析する用意はありませんが、このような愚痴にも、「甘やかされた存在」であることを棚上げした側面がありそうです。

      • -

他方で、音楽之友社の側にも、音楽学会に投資した成果は、それなりにあったのではないかと思われます。『音楽藝術』の編集スタッフにとって、学者という奇怪な人種と一緒に仕事をすることは、旧来型の音楽雑誌とは異なる学術雑誌の編集法を学ぶ機会であったと思われます。

楽理科の人材をライターとして使うようになっただけでなく、(4)でも書きましたが、『音楽芸術』が、A5縦組みからB5横組みへ移行するときには、『音楽学』を編集した経験が何らかの形で生かされたのではないかと思われます。文芸雑誌風の縦組みの『音楽藝術』が、1960年代になって、学術雑誌を思わせる横組みに変貌したことは、「現代音楽=アカデミック」という観念連合を促進したと思われます。音楽学は、学問の内容というだけでなく、その存在がかもしだすイメージの点でも、1960年代の音楽文化の一翼を担ったと言えるのではないでしょうか。

(しかも、『音楽芸術』が横組みに変わったのとほぼ同じ時期に、目黒三策社長は、藝大楽理科スタッフによる全4巻の決定版・西洋音楽史を企画していたようです(→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110515/p1)。1960年は、目黒三策社長指導下の音楽之友社が、藝大楽理科・音楽学に最も接近した年であったように思われます。

この4巻本・西洋音楽史のうち、辛うじて1960年代に出版されたのは、柴田南雄が担当した『4 印象派以後』(1967年)だけでした。残る3巻のうち2巻は、(ほとぼりが冷めるのを待つかのように)1980年代以後に出て、残る1巻は現在まで未刊行です(→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110406/p1)。

柴田は、別の径路で持ち上がった企画として、『西洋音楽の歴史』全4巻(上・中・下1・下2)に取りかかります。こちらは、1967年に上巻(中世の音楽、ルネサンスの音楽)、1969年に中巻(バロックの音楽、古典派の音楽(その1))、1973年に下巻1(古典派の音楽(その2)、ロマン派の音楽(その1))が出ており、同巻序文に次のように書かれています。

下巻(二)の仕事が残っているのだが、ただその部分は、拙著「西洋音楽史4《印象派以後》」(音楽之友社刊、昭和四八年三版)と、記述や造本の体裁はちがうにしても内容はほぼ一致するはずであることを申し添えておく。(柴田南雄『西洋音楽の歴史』下1、1973年、3-4頁)

下巻2の予告の体裁をとりつつ、既刊『印象派以後』をもってこれに替えることができることを示唆する文章です。実際、下巻2は今も未刊です。ひょっとすると、柴田南雄は、『印象派以後』と内容が重複する下巻2については、最初から書く気がなかったんじゃないでしょうか。

つまり、1960年代の音楽之友社では、楽理科スタッフが分担する予定だった『西洋音楽史』に、柴田南雄個人による通史『西洋音楽の歴史』という2つ目のシリーズが遅れて加わり、1970年代半ばの段階では、『西洋音楽の歴史』上・中・下1に、『西洋音楽史4』を合わせることで通史が完成する状態になっていました。『西洋音楽史』企画が何らかの事情で暗礁に乗り上げた状態を、柴田南雄が独力でフォロー・修復したかのようなのです。(柴田自身は1969年春に藝大楽理科を辞任しており、『西洋音楽の歴史』中は退官直後、下巻1はその4年後の仕事です。なにやら楽理科の延び延びになっていた残務整理のような印象があります……。)

このように、柴田南雄は、1950年代にバルトークや十二音技法で「日本のダルムシュタット」を演じていたのが、1960年代に楽理科教授として音楽学に軸足を移していますが、それは、彼個人の判断というだけでなく、音楽之友社が藝大楽理科へ熱烈なラブコールを送っていた時代とぴったり重なるのです。(1970年代になると、先にご紹介したように音楽之友社が音楽学会に出版援助の解消を申し入れるなど、潮目が変化しています。)

私は、1960年代の柴田の音楽学への接近に、彼の学者気質や深遠深慮というよりも、時代の潮目を読む嗅覚が働いていた気がします。「今は、音楽学が来てる」みたいな感覚があったように思うのです。音楽学を贔屓にしてくれた人だから、柴田南雄は音楽学者のウケがいいわけですが、実は、彼の音楽学への関与には、「深い」知性というより、「浅い」時代感覚が絡んでいるように思えてなりません。退官後にも「残務整理」が追いかけてきて、最後は、やってはみたけれども内外から色々なことを頼まれる面倒な職務であることだ、と内心思っていたかもしれませんが……。*柴田南雄と音楽学という話題は、最後の「後記」でもう一度取り上げます。)

あと、論文に欧文サマリー、というスタイルも学術雑誌特有で、ひょっとすると、『音楽藝術』の臨時増刊号として不定期に刊行された作曲年鑑『日本の作曲』が英文・日本語併記だったのは、そーゆーやりかたで「国際性」を意思表示することの付加価値を編集スタッフが知っていたがゆえに実現したことだったのかもしれません。わたくしは、ここにも、学問を内容というよりスタイルとして消費する音楽出版文化を感じます。(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100719/p1

戦後日本の「現代音楽」の周辺には、このように「スタイルとしての音楽学」を受容した形跡があるように思います。

(7) やり残したこと:美学系音楽学者とは何者か?

(1)で少しだけ書いたように、創立当時の音楽学会には、かなりの数の哲学系・美学系の学者が入っています。今でも、音楽学会の発表・論文には一定数の美学的論考が含まれています。これは、旧帝国大学以来の制度設計の影響もあって、1950年頃の日本の大学で音楽を専門とする研究職は、美学美術史講座に所属するのが一般的だったという現実の反映でもあると思います。そして設立当時の音楽学会会員の、音楽学会はリベラルだという発言には、美学会ほど窮屈ではない、というニュアンスが含まれていたようです。(私も、美学会西部会の例会にはじめて出席したときには、会場が百万遍の京大文学部だったこともあり、数々の儀式ばった作法と、研究発表のあとの懇話会での美味しいお茶菓子に、少なからぬカルチャーショックを受けました。まだ、そのあたりに西田幾多郎や和辻哲郎が生きているのではないかと、錯覚してしまいそうでした(←やや誇張あり(笑))。)

学会史で言えば、音楽学会が美学会とどのような関係にあったのか、という問題です。これは、今のわたくしには手に負えない課題です。誰か、美学会の歴史をわかりやすく、面白おかしくまとめてくれることを希望します!

そしてこれは、音楽学会関西支部の特殊事情ともリンクしていそうです。関東では、本郷の東大文学部美学講座が音楽学会とはつかず離れず、一定の距離を保っているような印象がありますが、関西支部の場合、創立時の主要メンバーの多くが京大美学出身ですし、当時の若手幹事だった「昭和ヒトケタ」世代も、多くが京大美学の同窓生です。学会設立当時から、関西支部は例会の形態も内容も、研究演奏会が多かったりして、関東支部とは独立している印象があります。そして恩師・谷村晃は、『30年史』の関西支部に関する記述には、事実と違っているところがあるから、直さなければいけない、とよく言っていました。(具体的なことをお伺いするチャンスがないまま、先生は亡くなってしまいました……。)

おそらく、こうした京大美学系音楽学者の先生方は、関東支部の動きを、先方が「中央」であり、こちらが「地方」であるというようなヒエラルキーで見ておらず、上野の音楽学校が何かやっとるけれども、こっちはこっちで自由にやらせてもらいます、というスタンスで、関西のお坊ちゃん特有の社交術で上手に話を合わせながらも、好きにやっていたのだと思います。関西から「異色の学者」がときどき出てくるのは、そういう風土が背景にありそうです。

[8/13 追記]

ただし、関西の音楽学者が好き勝手に遊んでいただけだ、と思われても困るので、もう一言。関西には関西なりの文脈で、1952年に音楽の「学会」ができることを歓迎する動機があったと思うのです。

『30年史』の「物故会員のプロフィール」の張源祥の項目を、当時日本音楽学会の会長でもあった谷村先生は、こんな風にまとめています。

氏にとって始めから音楽学は人文科学のなかに正しく位置づけられていなければならないものであった。氏が音楽美学の専攻できる美学科の創設に情熱を傾けたり、音楽学会関西支部長を長年[1956-1970年の14年間]勤めたり、美学会や東洋音楽学会においても大きい発言力と影響力を持ったこと、また私財を投じて関西音楽学研究所を創設したこと、これらすべては音楽の研究を人文科学のうちに正しく位置づけ、その市民権を獲得しようとする試み以外の何ものでもなかったと言える。しかも氏の生涯を通じての音楽美学の本質の追求には、一種倫理的な価値観が影を落として、氏の生き方を規定していたとも言える。張源祥氏のこの和の精神は大きい遺産として、今日もなお日本音楽学会関西支部に生き続けていると思う。(谷村晃)(48頁)

東京藝大楽理科の加藤成之&服部幸三が音楽学校の舵取り、戦後日本の高等教育行政の一大転換のなかで藝大が何をすべきか、というような、制度の設計・維持の意識が強かったと思われるのに対して、関西の京大美学系の張源祥&谷村晃は、学問システムとしての人文学のなかでの音楽の位置ということを重視していたようです。(「音楽学は人文科学のなかに正しく位置づけられねばならない」というのは、「音楽をめぐる思考ではなく、音楽による思考」というのと並んで、谷村先生の口癖でした。)そしてそれは、音楽の無上の悦びを謳歌しつつ、それを調和のなかに位置づけるというような、一種の「倫理・エートス」の次元を指し示してもいたようです。

私が知る限り、関西の音楽学会の先生方は、みなさん、国家・官僚・行政というようなものに自らが組み込まれることを嫌う自由人でしたけれども、同時に、ブルジョワの道楽には、それなりの遊びの仁義がある、と思っていらっしゃったのだろうと思います。

だとすると、日本の音楽学会は、戦後大学行政のなかで新たな進路を模索する音楽学校と、道楽に一定の歯止めと落ち着き先を求めていた自由人が、偶然なのか必然なのか、奇跡的に意気投合して、利害が一致したところに誕生したということになるのかもしれません。

[追記おわり]

1976年には、旧帝大の阪大に音楽学講座が設置されて、既に各大学の講座主任になっていた先生方が一挙に盛り上がり、1980年代には谷村先生を音楽学会の会長へ担ぎ上げて、1990年の国際シンポジウム大阪開催というところまで突っ走ってしまったわけですが、この「大阪万博」に似た奇怪な80年代を学会史に上手に記述するのは、結構手間のかかることになるかもしれませんね。

そういうことを嬉しそうに語るのは「関西人の欲目」であって、中央=関東に本部がある「日本」音楽学会にとっては、地方のローカルな現象にすぎない、と切り捨てることができるかどうか……。今後、日本音楽学会の正史が作成されるとしたら、このあたりの判断で、編集者の「歴史観」が問われることになるかもしれません。

(しかも、谷村会長時代は、同時に、徳丸吉彦・山口修の民族音楽学が学会で台頭して、藝大楽理科による「西洋音楽(史)の学会」という暗黙の指針への「相対化」が叫ばれた時代でもあります。そのあたりをどの程度に見積もるか、話はかなり複雑になりそうです。「民族音楽学の80年代」は、「ポピュラー音楽研究のゼロ年代」の前提でもあり、現在に直結しますから……。

とはいえ、私個人としては、そのような騒々しいオルタナティヴを受け止めつつ、理性的に応答しながら「西洋音楽(史)の学会」という柱を貫く団体が国内にひとつくらいあっていい気がしています。[音楽学校が「大学」であり続けようとするならば、音楽学校が「学問」として音楽に取り組む姿勢を堅持することは、制度上必須であり続けているとも言えるでしょう。]日本音楽学会は、時間がかかるかもしれませんが、あまり品揃えを拡張しすぎないで、そのあたりへ軟着陸するのが、「低成長・成熟社会」の団体としては、無難な落としどころじゃないかと、私は思っています。あるいは、東洋音楽・日本音楽にも配慮するなら、開き直って、「日本藝術音楽学会」を名乗るとか……。そういうことを考えてしまう私は、学会への「批判勢力」ではなく、「正統的擁護派」だと自分のことを認識しているのですが……。)

[後記]

「山根・服部論争」とその背景に狙いを絞って音楽学会の成立事情を整理したら、音楽の批評と研究に関して何か言えるのではないか、と思ってこの文章を書き始めたのですが……、

書き終えてみると、どうやら音楽学会の成立時に東京藝大と音楽之友社がプログラムした「日本の音楽学」は、批評と正面から切り結ぶタイプのものではなく、周囲から注意深く隔離された、いわば「深窓の学問」みたいなところがありそうな気がしてきました。服部発言は、外の世界との出入り口を厳重に監視する門番、口では評論家を非難するけれど、行動は「専守防衛」に徹している感じがします。侵入者を防ぐけれども、侵略はしない戦後日本の自衛隊……。

(そして私たちの世代は、角倉一朗先生の姿を見ながら、藝大楽理科の「門番」職が正統に受け継がれていることを実感することができたわけです。)

事実このあと、古楽やバロック音楽、20世紀の音楽のように、専門的な情報なしには何も言えないジャンルでは楽理科出身の書き手が継続的に出ていますが、吉田秀和や遠山一行がやっているような、いわば「正調クラシック音楽」の評論に、楽理科の知識をひっさげて参入したケースはなさそうです。

1990年代以後、「門限」は多少緩くなったのかも知れませんが、評論は儲かりませんから、半世紀を超える歴史のなかで随分と洗練された楽理科・音楽学のスキルを身につけた優秀な人達にとって、音楽評論は、もはや魅力的な職業ではなくなっているというのが実情かもしれませんね。楽理科を出た人達は、音楽学の情報や調査のノウハウだけでなく、演奏その他のスキルも身につけているので、人生の選択肢がたくさんありそうですし、わざわざ、好きこのんで評論へ首を突っ込む必要がない、ということかもしれません。

[8/9 追記]

(それから、柴田南雄が1960年代に音楽学、というより「楽理科」に接近したのは、このような藝大楽理科の風土を踏まえると、意味深長かもしれません。柴田のような経歴・嗜好の作曲家が楽理科・音楽学へ接近する理由としては、先に述べたような、成長分野としての音楽学への関心の他に、3つくらいのことが考えられると思います。

  • (α) 脱ロマン主義の一環としての音楽への「科学的」アプローチ(理念・エートスの次元)
  • (β) 高度成長期の時代風潮としての「未来予測」(「科学」に将来性・有用性あり、と見て、勝ち馬に乗る投企の次元)
  • (γ) 音楽学会[音楽学界?]が守り育ててきた「楽園」への共感(ライフ・スタイルの次元)

そして60年代の柴田南雄にとっての優先順位は、

(γ) > (α) > (β)

だったような気がします。現代音楽業界の人達が熱に浮かされたように「作曲家の歴史的使命」(β)を言い募る風潮にうんざりして(この倦怠が彼の1970年代の「メタムジーク」につながると考えられる)、それでも、「科学」(といっても、柴田が実践する「科学的方法」は主として列挙と分類・統計、観念論を回避する素朴な観察・実証に限られますが)の有効性への信頼は揺るがず(α、この認識は彼の歴史・理論的著作から明らか)、しかしなによりも、「居心地の良い環境」(γ)であることを最優先したら、楽理科の先生、というところへ落ち着いた。そんなところじゃないでしょうか。(校務が重荷になったらあっさり退官してしまったところにも、快適な生活(γ)を優先する姿勢が窺えます。)

対外的には、音楽学の意義、楽理科の意義、ということを色々言えると思いますが、そういうのは「門番」としての学会会長や楽理科主任の仕事であって、殻に守られた内側は快適……。実情がどうであったかどうかはともかく、「ドイツの地道な音楽学」を理想と仰ぎながら、楽理系音楽学が暗黙に作ろうとして、ある程度実現したのは、そのような環境であったように思います。

私が院生だった90年代でもなお、日本音楽学会は、査読の講評や全国大会における「先生」方の質疑が、討論の糸口というより、若手への「躾け」や「たしなめ」の傾向を帯びており、違和感を覚えたものでした。あれは、厳重に守られた「楽園」の「番人」の態度だったのかもしれない、と今にして思います。)

[8/9 追記おわり]

現状では[「躾け」や「たしなめ」の風土との対比という意味でも]、旧くて新しい美学・芸術学のマニアックに賢い人たちや、比較音楽学・民族音楽学・音楽人類学・応用音楽学・「四つの時代」や「を知る事典」の世界音楽などのアウトドア行動派(この人たちは国境を越えて移動するのでたくさんの名前を持っている(笑))、最新の社会科学を身にまとうロケンローな人たち(?)の動静のほうがむしろ気になりますね。あれは本当に「教養の復権」なのか? もしそうだとして、それは音楽と音楽学にどのような御利益をもたらすのか、災厄の元凶なのか? (さらに付随して、なぜ渡辺裕は演奏批評をしないのか、当人は自分の文章を「批評的」だと考えているのか?) 日本の音楽学に今必要なのは、こうしたことを吟味する門番=「第二の服部幸三」(←ただし、心と胃腸が強靱であるのが望ましい(笑))なのかもしれませんね。

ともあれ、歴史的な経緯と慣習から音楽学会のコアであり、メインストリームであると思われる楽理科系の取り組みは、関連業界に庇護されて、相当に地道で手堅く、優れた研究は(音楽評論家に怒鳴り込まれるだろうと怯える必要などないほど)現場で役立つ実用的な成分・情報をたくさん含んでいると思いますし(優れていない研究をあげつらって批判するのはアンフェアです)、当面これからも「楽園」の存続に向けてベストを尽くしていただきたい、そういう人がいなくなったらかえって困る、という感想を述べて、おしまいにします。

どんな運命に翻弄されようとも、お嬢様の心は清いのです。楽理よ永遠に!

(完)