イデオロギーと政治(と音楽)

また、政治学を専門としない学者やジャーナリストが、政治上の問題としてよく関心をもつ話題に、ナショナリズムがある。私見ではどうもこの問題は、政治というよりも、宗教などと同じく個人の生き方にかかわる信念のありようとしてとらえた方が適切に思えるのだが、ブックガイドは書いておく必要があるだろう。(苅部直『ヒューマニティーズ 政治学』、岩波書店、2012年、107頁)

政治学 (ヒューマニティーズ)

政治学 (ヒューマニティーズ)

「つくられた説」の蔓延以来、音楽書の話題がナショナリズムばっかりで、もううんざりなんです吉田先生、ここから立て続けに3冊も出るなんて(笑)!

という思いでいたところでオペラ演出家ペーター・コンヴィチュニーの話を聞きに行ったら、大真面目に「愛は政治だ」と言っておりまして、イデオロギー闘争と別の地平で「政治」という言葉が大変新鮮に生き生きと響いて、疲れた心身が蘇生したような気がしまして、

きっと同じような方向で政治(学)を説く人なのだろうと手に取ったのが苅部直なのでした。

本論が終わった巻末のブックガイドのなかの一節。それそれ、まさにそういう言葉を私は聞きたかったのですよ!!!

……という感じです。

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そうこうするうちに、「イデオロギーとしての近代(1960年代北米風の近代化論)」を捨て身でぶつける小谷野敦vs「ボクはこんなにたくさんエライ先生とお友達なんだよ大作戦」で逃げ切りを図る與那覇潤、なんていうのを道ばたで見かけたりもしましたが……、

こういうのを見たときには、かなり矮小な意味において「與那覇潤は政治家なんだな」と思っておけばいいこともわかりました。

(有名人と並んで撮った写真を地元選挙区のパンフレットに使う代議士、というのにちょっと似ている。)

小谷野氏は政治(かけひき)抜きで相手の性根が知りたくて、與那覇氏のほうは、そんなもん、うっかり明かしたら、いつどこで足を引っ張られるかわかったもんじゃない、とヒヤヒヤしながら、どこまで出世できるか綱渡りの真っ最中、ということなのでしょう。

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わたくしは、ワイマール時代のリストと彼を取り巻く新ドイツ派は、政治的に有効だったかどうか、よくわからないけれど、イデオロギー(もしくは理想)を音で示す、ということを本気でやったところが音楽史においてユニークだったのだと思っています。

リストのファウスト交響曲なんかは、「頭」へ働きかける音楽で、感情を揺さぶられて感動する、という風に作られていないし、そういう扇情的なものとは違う領域を開拓するのが彼の関心事だったと思うのです。だから、聴き手の感覚・知覚・心の動きを操作する術策という点でみると、リストはなんだか不器用、ヘタクソに見えてしまうけれど、目指すものが違ったのだと考えた方がたぶんいい。(そしてこういう志向を持った人だというところから遡るつもりで、彼のヴィルトゥオーソ風ピアノ音楽のただの曲芸でない部分に着目するのが、彼の音楽とつきあうコツだと私は思っています。)

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ロシア五人組(リストの影響を明らかに受けている)も、ボロディンとかムソルグスキーといった不器用系の人たちはそれに近い感触があるように思います。

ヴェルディがちょっとひねった「男のドラマ」を書いたりというのも含めて、これが、音楽においてナショナリズムやイデオロギーが関与的だった時代の感触だと思うんですよね。

で、それはもっぱら「イデオロギー」であって、「政治」ではない。

政治的にアクティヴな時代ではなく皇帝の力が強大な時代に作られて、労働者一党独裁の社会主義リアリズムの語彙で彼らを擁護可能だったのもそのせいでしょう。

そして「男のなかの男」でありたい方々は、(己の)「イデオロギー」を振りかざしたり、この指とまれ、で自陣に仲間を集めたり、なびかない人間をあの手この手で排除するのが、どういうわけか好きであるらしく、そういうのが「政治」なのだと思いこんだりするらしい。

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でも、そういうのではなく、ハイドンとかヴェーバー、メンデルスゾーンとか、音楽としては身が軽くて、でも、いつどこで何を投入するか、戦略・戦術があって、イデオロギー闘争を素通りして「政治的」な音楽というのがある(と思う)。

與那覇潤は、どこかでギャンブルから足を洗いそうな感じが透けて見えるので私にはあまり面白くなくて、西洋音楽史は、立派な文明であるとされている西欧の話なのに、なんだかヤクザな人士が出入りしており、そこが面白い。

(モーツァルトは、本人が面白いというより、野心家のパパの躾でああなっただけのような気がするので、実は私はあまり好きではない。)

だからどうした、ということではないのですが。