事務書類・申請書・報告書・誓約書等々に書名捺印する「作家さん」の権利はどうなっているのか? 書類作成という労働が付加価値の発生源なのだとしたら、そのことへの対価をちゃんと計算していただきたい件(真剣)

わたくしは、零細な家内労働で編んだ作文で対価を売る売文と、大学へパートで出講する大学教員の兼業なわけですが、ふと気がつくと、大学教員としての仕事に派生する諸々の書類作成については、どうやら、正確な「対価」を雇い主が計算していない気配がある。(常勤の先生だったら日常業務の中へ含まれるのかもしらんが、パートの人間が同じつもりで雑多な書類を作らされるのは少々困る。)

肉体の運動としては、定型の書式の空欄を埋めて、書名捺印で終わる場合も多いわけですが、そのような軽微な肉体労働の結果として作成された書類を提出することが個体を拘束する力は非常に強いわけで、もしかすると書き手(書類作成者)が背負うことになる影響力は、たとえば、兼業のもう一方のほうである「作文」において、肉体の運動量がほとんど変わらない数文字の連なり(たとえば「指揮者の○○はバカである」)を「売った」場合と同じかそれ以上である場合があるかもしれない。

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先日は、大学教員としての勤め先から、年間の出講回数は何回である、ということを年度の開始に当たって「自己申告」する書類の提出を求められ、おそらくそれは、交通費を厳密に「自己申告」させることによって、事後のトラブルのコストを減らすとともに、「それ以上は払わないよ」という形での「節約」を狙っていると思われるわけだが、

そのような書類を作成「させる」ことが未払い労働を生み出している、という認識、そして、万が一このような書類作成という未払い労働が賃金として本気で請求された場合に、彼らの「節約」が本当に「節約」として有効なのか、というコスト計算は、ちゃんとできているのだろうか?

……というのは、めちゃくちゃセコいミクロは話ではありますけれど、同様のことがもっと大規模に起きてるのがホワイトカラーな組織というところなのではないだろうかと思ったりするのです。

このあたりから、ホワイトカラー諸氏は、本気で、書類作成という労働の対価の「算定基準」や不当ではない「最低ライン」を明確にさせる、という形で、国民的規模(←おお、こんな言葉はじめて使ったぞ(笑))で大々的に労使交渉してもいいのではなかろうか?

(ちょうど、文筆業者が連帯して原稿料の「最低基準」を設定して出版社などと交渉してきたように。)

雇う側が最近コンプライアンスとかガヴァナンスとか言うやつに熱心なのは、コストカットにつながるという信仰があるからですよね。でも、それって、個人が「管理されること」に対して本来支払われるべきコストを被雇用者に還元していないだけじゃないかと思うんですよね。

そしてその「本来支払われるべきコスト」がある、という仮説を理論的に構築しようとすると、たぶん、資本論のホワイトカラー・ヴァージョンを構想する、みたいなことになってくるんじゃないかと、シロウト考えでは思うわけですよ。

これ、ちゃんとやれば面白そうな話だと思うんだけどなあ。

(父親の遺産整理の目処がつき、最後に立ち寄った某銀行でパンフレットを見つけまして、わたくしどもが2ヵ月かけて役所やあっちこっちを駈け回って何枚も書類書いたり、証明書を取り寄せたりした作業をいわゆる「相続サービス業」へ委託したら、(わたくしどものように、遺産と呼ぶのもおこがましいわずかな額の預貯金の名義書換手続きであったとしても)手数料として百万単位のお金を取るらしいことを知り、これはそんなに「高価な作業」だったんかいな、と驚いた。

またそれとは別に、団地の登記書き換えで司法書士さんのお世話になって、そういう仕事の相場を知ったことなどを考え合わせて、今の世の中は、「書類作成」の労働としての算定基準がそれなりの経緯で安定しているところもある反面、そうじゃなく、相当野蛮な感じの「言い値」(もしくは「未払い」)になっている領域がかなりあるんじゃないかと思うのでした。

雇う側(書類提出を求める側)ばっかりがそこから利益を得る形になってるのを、雇われる側が放置するのは勿体ない。そのあたりの関係を組み替える「日常の政治」のポイントじゃないのかなあ、と思うんですよね。

つまり、サラリーマンであれ主婦であれ、ハンコを1回付いたら、そのたびに「捺印料」が書類提出先から支払われる、とかいうことが、「個人情報」を言われる世の中なのだから、真剣に考えられてもいいんじゃないか。

……こんなことを考えるのは、私がどこかで勘違いしているのかしら。

でも、「こんな書類に判を突けるかバカヤロウ」みたいな啖呵が、どこかの自治体首長さんとか、大臣さんとかのメディア向けパフォーマンスとしてのみ話題になるのは勿体なくて、日々、役所や職場の窓口でそのような折衝をどんどんやったほうがいいと、私は思うんですよね。

私は、「一揆」の「起請文」が面白い、という発想が若い人にあるんだったら、そういう「群の闘い」とワンセットにして、日々の書類の署名捺印をひとりひとりが「有償化」して、個人事業主になる、という個人戦の発想もそれを補完するものとして、同時にあったほうがいいと思うのです。

あるいは例えば、研究者の「シューカツ」は公募のたびに大量の書類を作って提出することなわけですが、公募で「履歴書・業績表」などを要求するときは、1件につき手数料として○○円を応募者に支払わなければならないことにする、とか、そういう発想があってもいいと思うんですよね。実際すごい手間なわけで、しかも、研究者になろうという「人材」が、向こうの言いなりでそんなことをするのは、言い知れぬ搾取感があるわけですから。

役所は、戸籍とか住民票とか印鑑証明とか、1枚申請するたびに何百円の手数料を取るわけで、だったら、本人が署名捺印して内容を保証した高品質な「私の履歴・業績」は、それなりの対価を支払わない奴には教えられないな、という風な交渉の仕方ができる世の中というのを構想してもいいんじゃないか。)

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以上、過去数年間で偶然の巡り合わせもあっていくつかの団体・組織さんの事務仕事のお手伝いをさせていただくことが続き、それがほぼ2012年度末で完了したタイミングで、その総仕上げみたいな感じに役所等へ通う遺産整理の業務が一段落した現時点での、率直な感想です。

書類は、作成を個々人に求める側が一方的に利用する「金のなる木」にしておくのは勿体ない。作成する側のビジネス・チャンスになっていい。

一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで

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政治学 (ヒューマニティーズ)

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苅部直(すごくきれいな日本語を書く)は、災害時に顕在化したりする個々人の連帯・アソシエーションとか、旧来の政治学が「消極的自由」と一段低く見ていた「個人の勝手にさせてもらう権利」の再評価といったトピックも丁寧に拾うわけですが、そういうのが経済の毛細血管みたいなのから決して独立してはいない/独立させるには一手間も二手間のかかる、というのが今の世の中の世知辛さだし、そこからはじめないとしょうがないと思うわけです。
夫婦善哉 (新潮文庫)

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「金」の話があらゆるところへべったりへばりついている大阪人の狡辛さに肯定的な意味を見いだしうるとしたら、そこではないか、とも思うし。