音楽の社会学/音楽の文明学?

幸田姉妹

幸田姉妹

旧士族で幸田露伴の妹、東京音楽学校の伝説の教授で皇族などにも音楽の手ほどきをした幸田延(生涯独身)と安藤幸の評伝。

稲葉振一郎さんが、社会学という学問は近代社会の自意識の臨床である、という意味のことを以前書いていらっしゃったかと思いますが、近代社会が市民=中産階級の社会なのだとしたら、通常、音楽の社会学と呼ばれている分野が扱っている「諸症状」は、社会学の下位区分というより、もはや、社会学では対処できないものを含むかもしれませんね。

「学外でお金を稼ぐために演奏することはしない」という旧士族の誇りが洋楽にノーブルな雰囲気を付与していた(いる)わけですし、ヨーロッパでは、貴族が後ろ盾になってお城で音楽祭が開かれたりしていた(いる)わけですから、もはや、「中産階級」だけでは片付きそうにありません。

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これと関連するかもしれないし、しないかもしれないこととして、

某音楽学会会長の「音楽評論家」としての紫綬褒章の記念に

「研究と評論の間 - 日本音楽学会歴代会長に学ぶ」

というシンポジウムを企画してはどうでしょう。

「研究」を厳密に規定してしまうと、どうしても、「研究」でもなければ、既存の「評論」でもない「間」が生まれてしまって、しかも面白いことに日本音楽学会は、学会としては近代的な学問を志向する一方で、会長には、そういう「間」を上手に処理できるタイプの人が選ばれる傾向があるように見えるからです。

存命の歴代会長には事前にコメントを寄せていただいて、パネリストは、物故会長(加藤成之、辻荘一、野村良雄、服部幸三、谷村晃)それぞれについて、こうした先生方が狭義の「研究」の範疇に収まらないどのような取り組みを行っていたか、回顧・報告する。

  • 加藤成之時代の音楽学会と音楽評論
  • 辻荘一とキリスト教
  • 野村良雄の美と思索
  • 服部幸三と戦後のバロック音楽ブーム
  • 谷村晃とコレギウム・ムジクム

とか……。

こうして素案を考えていくと、少なからぬ先生が、「学問と評論の間」に「中産階級の社会」の外部を指し示す何かを抱えていらっしゃったように思えてきます。(加藤先生は貴族院議員だったこともあるそうで、服部先生にはその衣鉢を継ぐ意識がおありだったようですから……。華僑の張源祥先生に学んで「大阪の商人の出です」と言っていた谷村先生がなんだかとても異色に見えます。)

このようなかつての音楽学会の先生方のお人柄を振り返る一方で、マックス・ウェーバー『音楽社会学』の訳者である角倉一朗先生や、啓蒙の18世紀のルソーやモーツァルトがご専門の海老澤敏先生、戦後GHQ占領下にキリスト教長老派によって設立準備が進められた国際基督教大学の金澤正剛先生、民間企業の音楽ホール館長の顔をもつ礒山雅先生からお言葉を頂戴できれば、大変貴重な機会になるんじゃないでしょうか。

ご存命のより若い世代の歴代会長の先生方の場合は、「研究」と「評論」の「間」が近代市民社会の外へ漏れ出ていくわけではないように見えるのですが、そのような理解でいいのかどうか……。

そうして、このような過去の経緯をおさらいしたところで、紫綬褒章な現会長にコメントを考えていただく、と。

(再び高邁に高みを目指して、なのか、実は事務とか行政とか、目を逸らすことなく細々と折衝・解決されるべき庶務の山がそこにあるに過ぎないんだよ、と今まで以上にざっくばらんに世俗的に言うのか。)

憲法の改正をやりやすくする運動があるご時世、勲章を「(歌う)国民」に授けてくださる方についても、そのありようを一層オープンにするのか、あるいは、一層クローズドにするのか、そもそも論で根本的に位置づけを考え直すのか、現行とは違う他の選択肢がありうるかもしれないことを今よりカジュアルに考えよう、ということなのだと思いますし……。