「文用」と「文粋」をすっきり二分することを阻む音楽学者の容姿について

[深い意味はないですが、ゼッフィレッリの仕事の概観つき。→ 7/27 ゼッフィレッリの話はhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110718へ統合。]

「ネットの海」(←陳腐な表現)で「拾った」(←同左)文字列をもとに、とっても「彼らしい」論法をめぐって、だめ押しで少し書きたいのですが、どうやらtwitterというのは、何事もなかったようにあとでエントリーが削除されたりして、公開情報とみなしていいのか、とらえどころのない情報ツールであるらしいので、リンクを貼らずに問答無用に文面を貼り付けてしまう方向でご容赦いただきたい。

[smasuda 増田聡]簡単に整理すれば現在の文化概念は二つの極の間に布置する。スクルーティニー派的な「人間の知性感性の精髄」としてのそれ、そして文化人類学的な(ウィリアムズ的な)whole way of lifeとしてのそれ、の間のどっかにあるというのがまあ現代的な人文学者の基本了解やと思ってたわけよ

マスダ・メソード炸裂。思いつきを瞬発力で一気に出す。実に俊敏な言葉です。人はこの初動の速さに、こいつは凄い奴なのではないか、と思うわけですね。

そして相手が出会い頭で動きが止まって、正気を失っている間に、一気に畳みかけます。

[smasuda 増田聡]だが!スクルーティニー派的な概念というか「それを生きる」若者がまだ居たことをまるっと忘れていたことに今日改めて気がついたわけよ。つうかむしろ、スクルーティニー派的な文化概念をwhole way of lifeとすることができる下部構造が(限定的にではあれ)あったことをど忘れの不覚

しかし、ここは立ち止まって冷静に分析する必要がありそうです。

この文章の全体は、「私は〜〜という事実をうっかり忘れていました。」というように、話者が自らの認識不足を認めて、読者に許しを求める構文にまとめられています。ヒトは全知全能ではないので、何かを見落とすことはありうることです。

「うっかりミス」を許すか否か、と問われたら、多くの読者は、「それくらい、よくあることですよ」と気軽に受け入れることができるし、場合によっては、「自分のミスを率直に認めるとは、なんて誠実な話者なのだろう」と思ってしまうかもしれません。

でも、これは、「羊の皮を被った狼」の語法、詐欺師の常套のレトリックかもしれません。

というのは、肝心の、彼が「うっかり忘れていた」とする内容、すなわち、「スクルーティニー派的な概念というか「それを生きる」若者がまだ居た」、もしくは、「スクルーティニー派的な文化概念をwhole way of lifeとすることができる下部構造が(限定的にではあれ)あった」という言明の真偽の検証がなされていないからです。

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前後の文脈から、学会での質問者のひとりを彼が「若者」と形容し、その「若者」の態度を、彼は「スクルーティニー派的な文化概念をwhole way of lifeとしている」と判定していることがわかります。

もし、学会の討論がそれなりに徹底して行われて、彼の判定が参加者に共有されるところまで進んでいたとしたら、smasuda名義のつぶやきがわざわざ発信される必要はなかったはずですから、この判定は事後的な彼個人の思いつきであり、たとえそれが、学会の場での出来事に端を発するものであったとしても、学会とはもはや関係のない話です。

そこには、司会者としてそのような見取り図を当意即妙に示すことができなかったsmasuda氏の後悔があるのかもしれないし、あるいは、読者のあなたならご存じであるはずのこの図式を私はも、も、も、もちろん最初からわかっていますよ(汗)、というおもねりや取り繕いなのかもしれないし、あるいは、「若者」と形容された当人を前にしていたらとうてい口にできないような失敬な決めつけだからこそ、その場ではなく、あとで陰口として書き付けられたのかもしれませんが、定かなことはわかりません。

いずれにしても、このように分析してみると、これはとうてい、「うっかりミス」を許すか否か、という次元の話題ではないことだけは確かです。smasuda流の言語パフォーマンスは、このように内部に濁った未決部分を封じ込めながら、表面的には円滑な会話を装うことで進行します。

彼自身の後悔なのか、自己弁護なのか、誰かへの陰口なのか、正体が判然としない認識を、「うっかりミス」の自己申告であるかのように承認せよといわれても、そんなことは、自分で勝手に処理してくれ。こっちに押しつけられても困る、というのが、常識的な反応なのではないかと思われます。

こういう風に、「詐欺」もしくは「甘え」の一番肝心なポイントを、出会い頭の勢いで通してしまおうとする語法が、彼のパーソナリティの大きな特徴である、と、わたくしの長年の観察をもとに考えております。

このあとの書き込みを見ると、「詐欺師」が最初の小さな同意を突破口にして、猛然と相手の懐へ攻め込む様子がよくわかります。

[smasuda 増田聡]で、隠れ(でもないか)スクルーティニー派の文化概念は、例えば「文化庁」の文化がどっちの極を志向してるのかようわからんわけですから、ひっそりとあなたの隣に併存しているわけだ!キミの言う「文化」は、ぜんぜん違う意味として隣の人に理解されてるかもしれないのです。

[smasuda 増田聡]まあ社会学者とかはいいよね。そういうのを少数説としてスルーできるから。でもなあ。音楽学ってのは内部ではスクルーティニー派な文化概念の人が多数派になるとこでお話しせなあかんような構造やねん。世代がいくら代わっても!その難儀を久しぶりに感じた一日でした

学会の本番では、上手く司会を切り盛りできなかったようなのに、最後は、音楽学への愚痴とともに、何かを「久しぶりに感じる」という爽やかな発見にたどりついて、すっきり爽快!

会話の相手は、彼が自らの心の健康を取り戻すための独白的・マスターベーション的なカウンセリングにつきあわされてしまったようです。

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でも、ここまでは、twitterにありがちな光景だと思うので、別にいいのです(ちょっと精神年齢が幼なすぎないか、という懸念はあるにせよ)。

[smasuda 増田聡]なんつうかオレたち、英語とか漢語とかに存在しないけど何かを言い表す適切な言葉を勝手に案出するのをほんま抑圧されてるよなあ。そういうのを去勢と呼ぶんではなかったか。
8時間前

[smasuda 増田聡]まあオレ思うんだがスクルーティニー派的なのと文化人類学的なのが、同じ「文化」って語彙使ってるのがいろいろ難儀な要因になってる気がしますわ。新しいの考えようや少なくとも日本語用で。「文粋」「文用」とか。プロジェクト西周でどうだ

話者のsmasuda氏は、文化の二分法に、学会を終えたあとの心のマスターベーションの使い捨てのネタ以上のこだわりがあるようで、「文粋/文用」という対の造語を案出しています。

さてしかし、私には、ここにこそ、話者の真骨頂と言うべき捻れがあるように思われます。(上で述べた「詐欺のレトリック」は、露骨であり、それゆえに回避することはそれほど難しくありませんが、そこで安心していると、その先にもっと大きな「何か」が待ちかまえており、これが、smasuda氏の面倒くさいところであるわけです。)

ここまでの文章を読んでいると、あたかもsmasuda氏は、「文用」としての文化を顕揚したいと望んでおり、「文粋」としての文化は、彼の大望を阻む“敵”と認定されているかのようです。

でも、本当にそうなのか?

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そもそも、cultureの訳語には「文化」として「文」の字が入っており、smasudaが「文粋/文用」と言うのもこの習慣を踏襲しているわけで、実際、「文粋」としての文化は「美しい文」に彩られる傾向があり、「文用」としての文化は「実用的な文」があればいい、という態度と親和的なのかもしれません。

ざっくり単純化して言えば、見事な書体で書かれた内容空疎な作文と、悪筆で内容豊かな作文のどちらを良しとするか、という話です。

現状の日本の学校という制度は、「悪筆でも内容が合っていれば合格」とみなすことになっていて、この制度は、実際に文化的な帰結を生み出しているように思います。個人的に見聞したかぎりでは、阪大生のレポートは、女子大生や音大生のそれに比べて有意に「悪筆」であり、採点するときに、氏名や学籍番号すら判読できずに難儀したことをよく覚えています。彼らは、まさしく「文用」の論理によって、工学や医学のエリートの地位を獲得したのだと言えそうな気がします。

一方、音楽家の日常は、「文粋」がとっても大切です。コンサートをやるということになった場合、各方面に送る招待状や、来てくださった方々へのお礼状が殴り書きで判読困難だと、具体的な不都合が生じる可能性が高そうです。チラシやプログラムをどういう風にまとめるか、舞台のうえでどのように振る舞うか、等々、音楽活動では、隅々まで「文粋」が問われ続けるようです。

smasuda氏の提案は、(途中、酒でぐだぐだになって愚痴っぽい回り道をしたけれども)最終的には、「文用」と「文粋」の両方の文化を両睨みにしてやっていかねばならない認識にたどりついて、「なかなか好感が持てる」ところへたどりついているかのようではあります。「文粋」へ傾く人がいることを認識しつつ、オレは「文用」(実用本位)で行くぞ、とオトコらしく宣言しておる、と。

でも、音楽学における「阪大的なもの」の病理はそこではない、と、この一連の文章を読みながら、私は思いました。

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いきなり実名を出して恐縮ですが、2008年にサントリー学芸賞を得た奥中康人さんは、伊澤修二とか鼓笛隊とか、むくつけき幕末の志士たちが跋扈する洋楽黎明期を専門にしていますが、ご本人は、ちょっとびっくりするような「美形」で、学生時代からアマチュア・オケで鳴らしたチェロ弾きです。要するに、本人は「おくりびと」のモックンみたいな感じに見える人です(同志社出身)。

阪大や東大の文学部の教員の心理の屈折を具体的に分析することは困難ですが、どうやら、ある世代(まで?)の、戦後サブカルチャーが華やかに開花した時代になお、灰色の文学部に籠もって学問一筋で過ごした先生方は、傍らに、ああいう、いわばジャニーズ系(あるいは、もしかしたら、遠く、森蘭丸まで起源を遡ることができるかもしれないようなタイプ)がいると、理屈ではない魔力に囚われてしまうところがあるようです。

(実際に、飲み会で彼を横に座らせながら、その容姿に賛嘆する教員(男性)の姿を目撃したことがあるし……。)

それが、ご本人にとって幸福であったり、有利であったりするのかどうか、わたくしは当事者ではないのでわかりませんが、少なくとも彼のパーソナリティや立ち居振る舞い、研究・言動は、当人の望むと望まないとにかかわらず、そのことを読み込んだ上でのことにならざるをえないのだろうと想像しております。

阪大生だからといって、実用本位で、ナショナリズムの形成期における洋楽の役割、といった「文用」的なものに立てこもっているわけではなく、むしろ、彼の生き様を見ていると、「文」の水準で徹底的に抑圧した「粋」が別の水準で顕在化するといったフロイト的状況があるように思われます。

smasuda名義で書き込みをしている彼もまた、いかにも学生時代にギター抱えてロックをやっていたような顔立ちです。瞳を閉じて、言葉のみに耳を傾ける、もしくは、ヴィジュアルを遮断して流れてくる文字列だけを受信していると、「文用」の旗を掲げて、rest of usの先頭に立って奮闘しているポピュラー音楽学者であるかのようですが、瞳を開いて、彼の顔を見ていると、「文粋」を信奉する人たちの表情が緩んじゃうところがあるわけです。

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なんだかんだ言いながら、「男芸者」じゃないのか、と私は思う。

smasuda名義の人が心の師匠と仰ぐ内田樹先生がどちらかというと母性をくすぐるタイプなのに対して、阪大出身の人たちは「父性をくすぐる」(←こんな言葉があるのかどうか知りませんが)という傾向が強いようです。このあたりは、ひょっとすると京大の存在感が強い関西の風土なのかもしれませんね。「文粋」には様々なパターンがあるなかで、音楽学における「阪大的なもの」は、公家的なものと旧制高校的なものが渾然一体となった千年の都のヴァージョンとの相関関係でその実装が規定されているように見えます。

現在の阪大の総長が京都生まれでファッションの現象学の人なのは周知のことですし、smasuda氏は、京都の岡田暁生が助手だった時代に研究室に入って、現在の上司は、京大美学を卒業した奈良のお寺の次男坊さんです。

(あと、彼らの「実家」であるところの阪大音楽学研究室は、1991年以後、渡辺裕 → 根岸一美 → 輪島裕介というように数年から十年で東大卒の教員が現れては去っていって、なにやら、男出入りの激しい家みたいな状態が続いています。そうして、お互いに血縁があるのかないのかよくわからない子供たちが中上健次の小説のように増殖している……。水商売っぽいキャラの人間が活躍できる土壌は、そういうところにもあるかもしれませんね。(ちなみに、初代の教授の谷村晃は退官まで10年以上在職して、山口修は講座開設時に助教授で着任から退官まで20年以上ずっと阪大でした。谷村先生が浜村龍造で、山口先生がフサで、伊東さんが秋幸なのでしょうか??))

「文粋」の存続はオレのせいじゃない、みたいに言っているけれど、キミ、しっかりキンタマを握られてしまっているじゃん(お下劣な言い方で申し訳ない!)、それって、「日本の文粋」の精髄みたいな部分じゃん、という風にわたくしには見えるのですが……。

それが悪いと言っているわけではなくて、素直に認めちゃえば話がわかりやすくなるのに、ということに過ぎませんが。

由緒正しく関西の音楽学者として機能しているし、結局、それしか残っていない立場なのに、「オレは違う」と言い張ろうとするから、虚言癖の狼少年のようになってしまうのではないか。本気で何かをやるつもりなら、自分の立場を清算してからだと思うが、そこまで腹をくくる覚悟はないわけでしょう。(まあしかし、プラトニックな男の絆が勝手に熱く燃え上がっているということは、女性の皆さまにとっては実にも安全な場所だということでもあるので、ショーパブ感覚でのぞきに行くのはアリか(笑)。客寄せにはなってるわけですね。見物客を集めてどうするのか、実は何も考えていなさそうなので、いずれ、飽きられると思いますし、そんな空騒ぎに巻き込まれるのはまっぴらですが。)

女形の運命 (岩波現代文庫)

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猿之助三代 (幻冬舎新書)

猿之助三代 (幻冬舎新書)

話に直接関係はないですが、最近読んだ本。

これも、今更ですがようやく最近読んだ本。

ゼッフィレッリ自伝 (創元ライブラリ)

ゼッフィレッリ自伝 (創元ライブラリ)

詳細はこちら。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110718