山折哲雄と演歌

輪島裕介著の「つかみ」部分で山折哲雄の発言が大きく扱われているのは、輪島さんが、2007年から続いている(2011年も継続なのかは不明)日文研の共同研究「民謡研究の新しい方向」のメンバーになっていることと関係があるのかないのか、ちょっと気になる。(山折哲雄は2005年まで同センター所長。)

http://www.nichibun.ac.jp/research/team_archive/h22_minyou.html

輪島さんが阪大にスカウトされたのは、この研究会では? と勝手に邪推してしまっているのですが。(そういえば、豪華メンバーの共同研究ですが、「歌う国民」の先生は入っていない。)

伊東先生と輪島先生の接点というと、事情に疎い圏外にいる私には、この研究会くらいしか見当たらなかった、というだけのことで、根拠薄弱な邪推ですけれど。

それに、個々のメンバーさんが、4年続いている研究会にどういう立場で関与しているのかわかりませんし、そもそも人事というのは、結局当事者以外には本当のところはわからないもので、詮索それ自体は、組織勤めな人達の酒の肴以上にはなりえない話だと思いますが。こういうのは、なんだか、往年のクレムリン・ウォッチャー(今の北朝鮮ウォッチャー)みたいなことになってしまいますし。

なぜ、山折? というのは、本を読んですぐに違和感を覚える箇所ですが、時か経過するとコンテクストがわからなくなりそうな気がするので、メモ。

ポピュラー音楽研究の「身内」がどんどん関西へ集まってくる、ワーイ! というだけではない何かが動いているのか(←無責任な野次馬の陰謀論)。

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3つの大陸をまたにかける永遠の風来坊指揮者・大植英次ですら大阪フィルに8年留まって結果を出したのですから、輪島先生におかれましては、4年で東京へ帰った「渡辺裕(=やり逃げ?)越え」は当然として、是非とも「大植越え」をしていただきたいと思っております。8年では、現在の受験生が輪島裕介に学ぼうと思って阪大へ入っても、博士論文の提出には至らず、「孤児」になってしまいますから。(教員が動けば、助手や院生もごっそり大移動する、というアメリカやドイツのシステムであれば、別に気にすることはないのでしょうけれど。)

修士論文を書いたところで指導教官がいなくなって、「継子」状態がそのあとずっと続いたら、性格は歪む。それは、前任教授の残党が過去にしがみついている、とか、そういう単純な話ではない。

(その間にも、大学教授の息子を音楽学研究室へお預かりしている、というような「わけあり」の人達は、次々、前任教授の豪腕であっちこっちの私学へ送り込まれていた。あるとき、先生から突然自宅に電話があって、「彼はこれこれの理由で助手に採ることになった」とそれだけ言うと電話は切れた(岡田暁生のことではない、念のため)。孤児院に、養子先が決まらずにずっと残っている、みたいな心境(不穏当な比喩で申し訳ないですが……)。わたしは、のちに、先生がもう長くないようだ、と伝え聞いたときにも病院へお見舞いには行っていない。行くものか、と思っていた。)