ノーマークだった小倉朗(実は柴田南雄と同年生まれ)

[7/7 菅原明朗の小倉朗への評価などを追記 7/8 オマケのヴィスコンティ談義に若干の追加。7/9 小倉朗の家庭環境の補足を自伝をもとに書き足し。7/11 柴田南雄の自伝と照合してさらに追記。7/12 『現代音楽を語る』の紹介に若干加筆。7/27 ヴィスコンティの話は、http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110718へ統合。]

日本の耳 (岩波新書)

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マエストロの肖像―菅原明朗評論集

マエストロの肖像―菅原明朗評論集

小倉朗を語る大植英次(@今夜東フィルを指揮)のコメントに、「日本のバルトーク」という言葉がっ!

http://www.tpo.or.jp/concert/detail-2080.html

小倉朗は特定の作曲家に熱狂するタイプだったようで(ウィキペディアでは「オグラームス」という言葉が紹介されている)、菅原明朗の回想座談を読むと、若い頃はなんだか腰が軽い人と見られていたようですが、「東洋のバルトーク」(「東洋の」という言い方は、「なにわのモーツァルト」が謙虚に見えてしまうほど大きく出ておりますが、大阪人が通天閣でエッフェル塔をパクッたりした戦前以来のデカイ夢を捨てられなかった頃のキャッチコピーなので、ご容赦いただきたい!)の立場は?!

大栗裕作品集

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そういえば、小倉朗の舞踊組曲も吹奏楽に編曲して演奏されているようですね。微妙にキャラがかぶっている、のでしょうか??

でも、大植さんと小倉朗、結構いい組み合わせかも。

[7/7 追記]

上記、菅原明朗の本に出てくる小倉評(初出『音楽藝術』1950年11月号)。

記者 [……]小倉朗氏は何時頃教えたのですか。
菅原 彼は昭和八、九年頃じゃないかと思いますがね。あるいはもうちょっと後だったかも知れません。深井[史郎、小倉朗は深井に師事していた]が連れて来たのです。この人は根本的な欠陥を持っていると思う。欠陥は誰にでもありますが、一番困った問題は根本的な欠陥にある。
記者 それは何ですか。
富樫[康] 先生を尊敬しない点じゃないですか。
菅原 それならいいです。芸術を尊敬しないのです。
富樫 あの人は非常にきかん坊ですね。たびたびどこかできかん坊の性質を発揮しております。
菅原 これでは芸術は書けませんよ。恐らく自分も尊敬しないのじゃないかと思う。(301頁)

散々な言われようです。^^;; 小倉朗は、戦前から様々な人の間を渡り歩いて、この菅原明朗のインタビューが出た頃はブラームスを「模写」(本人の自伝の言い方)していた時期。自伝では、前半生がなんともシニカルな調子で、東京生まれの無頼っぽい「低空飛行」として綴られていて、「恐らく自分も尊敬しないのじゃないかと思う」という形容がぴったりに思えます。

(実母の妹の嫁ぎ先に養子として入るのだけれど、養父と母の実家との関係が思わしくなく(母方の祖父が安田財閥の重役で財を成した人物で強大な家長として睨みを利かせていたらしい)、小学校時代は母方の祖父の家で厳しく躾けられて過ごすことになる、といった家庭環境が複雑で、こうした寄る辺ない少年時代が長らく心の傷になっていた、という前提があるみたいなのですが。)

そして1950年代にバルトークに開眼して、それまでの作品を全部焼き捨ててしまうんですね。(自伝の記述に従えば、それは同時に、母方の祖父から連なるややこしい家庭環境にひとまずの決着がついた時期にもなっていたようです。)

1974年に書かれた自伝は、1950年代に過去の作品を全部焼き捨てる場面で終わります(その後のことは書いていない)。焼き捨てられることになる前半生の作品群が、自伝のなかでは「試作」と呼ばれ、池内友次郎の影響でフランス風に書いたり、戦争末期から一転してブラームスを模写した行為は、古典の学習時代と位置づけられています。すべてを焼き捨てたところから(公私ともに)本当の「僕」がはじまり、1974年段階での現在に至っているのだ、というのが自伝の設定であり、この設定があるから、「尊敬できない自分」を書くことができているように見えます。

でも、それだけでは終わらない。

1975年(ということは自伝で「僕」の物語を書き上げた翌年)には、京都市の委嘱で「オーケストラのためのコンポジション 嬰ヘ調」を書いて、小倉朗は、ここでまたもや、「今までの僕のオーケストラへの迫り方を一変させた」と言うんですよね。

過去を焼き捨てる態度において一貫している人なのかもしれません。スクラップ・アンド・ビルドな東京の人。

北風と太陽―自伝 (1974年)

北風と太陽―自伝 (1974年)

小倉朗は柴田南雄と同年1916年生まれで、同じ東京人。戦後しばらくは、柴田、入野、別宮、吉田秀和などと頻繁につきあいがあったようです。「新音楽をコツコツ学習する戦中派」の柴田南雄(彼は「戦前派」を不勉強であるとみなし、そのことに批判的だったらしい、柴田の「戦前派」へのやや一面的な批判は間もなく「新作曲派協会」との軋轢を生むことになる)や「シューマンからシュトックハウゼンへ飛翔する」吉田秀和(「退屈でもね、一瞬実に美しい音がする、それがロマン派」と言っていたのが洋行で新音楽に改宗して「ピアニシモから一瞬猛烈なフォルティシモに変るんだ、今の作曲家がああいう響きに興味を持つ気持、わかるなぁ……」と言い出したらしい、この一種の「変節」をのちに別宮貞雄が難詰することになる)が同世代からどう見えていたのか。「何も尊敬しない人」の観察は、遠慮がない分、リアルですね。

[追記おわり]

[7/11 さらに追記]

柴田南雄や入野義朗、吉田秀和などは、終戦後の一時期、調布大塚の小倉朗の家によく集まっていたようです。戦争で焼けずに残った家で、柴田南雄は彼の自伝で「当時小倉朗が住んでいた雪ヶ谷大塚あたりのだだっ広い家」と形容しています(柴田南雄『わが音楽わが人生』228頁)。

柴田は、セノオ楽譜の妹尾幸陽の甥、内藤健三がやっていた東京音楽書院の仕事を戦時中から手伝っていたそうです。戦後、同社は田園調布の内藤の自宅へ移り、1948年(昭和23年)3月から入野義朗も編集に参加(柴田、229頁)。そして小倉の自伝によると、「終戦のほぼ三年後」ということなのでほとんど同じ頃、戦後の歌曲集を出すことになって、その相談で柴田が小倉家を訪ねる。以来、近所だということもあり、つきあいが始まって、そのうち柴田が入野義朗を連れてくる。そこに吉田秀和が加わって、吉田が別宮貞雄を連れて来る(小倉、229頁)。

柴田の自伝にはこういう記述もあります。

放送の準備のため、内幸町時代のNHK二階の資料室によくレコードの試聴に行った。シャーンドルのピアノとオーマンディの指揮による、バルトークの《第三ピアノ・コンチェルト》の最初のレコードの到着したばかりの外国製を、その部屋で吉田秀和、入野義朗、小倉朗の諸君と一緒に聴いたこともあった。(柴田、270頁)

柴田がレコード・ジャケットのバルトークの写真をみて、「疲れやつれ果てた揚句何の希望も棄て去つた風の老人」であることに驚いた現場(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1)には、吉田秀和や小倉朗もいたようです。そういう風にツルむ仲間だったようですね。

小倉も、実はこのときのことを『現代音楽を語る』(1970年)に書いています(現物が今見つからないので、石田一志の『音楽芸術』1989年9月号の記事から引用[→その後、現物は見つかりましたが、バルトークに関する回想は、ほぼ石田一志が引用した箇所だけで、とくに新たな発見はありませんでした])。

やがて《第三ピアノ・コンチェルト》のレコードが出たと知って、それをNHKできく。まだ戦後の騒然とした空気が残っている部屋の一隅であったが、その古典的完成にひどく打たれる。そのあと、一緒にきいた仲間と、言葉にならぬ言葉でその感動を語り合った。(小倉朗『現代音楽を語る』172頁)

石田一志は、柴田南雄によるバルトーク紹介と、このNHKでのバルトーク体験を別々に紹介しています。小倉のこの書き方だと、どこかの部屋でNHKの放送を聴いたかのようにも読めてしまいますが、実際は、柴田南雄の手引きでNHKへ行って、そこでレコードを聴いたようです。ブラームスに傾倒していた当時の小倉が注目したのは、バルトークの「古典的完成」だったんですね。

現代音楽を語る (1970年) (岩波新書)

現代音楽を語る (1970年) (岩波新書)

シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトークについて雑誌等に発表したエッセイをまとめた本。小倉朗自身の体験談などはあまりないですが、シェーンベルクの章の冒頭、実験工房によるシェーンベルク演奏会の描写は、モビールのオブジェのことや、聴衆の反応などにも言及していますね(28-29頁)。
日本の耳 (岩波新書)

日本の耳 (岩波新書)

『日本の耳』のなかのあれこれの記述が引用されているのをときどき見かけますが、この本は思いつきを並べるだけで、あまり掘り下げていないと思います。今回読み替えして、武智鉄二のナンバ論を引用しているのを発見。

柴田南雄がバルトーク論を『音楽藝術』に発表して、毎日音楽賞がらみで新作曲派協会と一悶着が起きるのは翌1949年。小倉朗がバルトークに宗旨替えして「舞踊組曲」を作曲するのはさらに4年後の1953年で、NHKテレビ『事件記者』のバルトーク風テーマ音楽を書くのは、そのまた5年後の1958年です。

小倉朗のバルトークへの傾倒は、柴田南雄のすぐそばで進行していたと見て良さそうです。

NHK想い出倶楽部~昭和30年代の番組より~(1)事件記者 [DVD]

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オープニングの「音楽 小倉朗」のクレジットは、「作 島田一男」に続く2番目にドーンと出るんですね。生放送のドラマで、ワンシーンの芝居がずっと続くところはナマっぽいと感じですが、物語が山場になると短いシーンを次々切り替えたり、舞台劇とも違う手法がありそうですね。

[さらに追記、おわり]