柴田南雄と吉田秀和:戦後高度成長期の音楽を考えるために

[8/39 時代背景を知るヒントとして、大原総一郎と「現代音楽」の記事へのリンクを追加。大きな絵が見えて来つつある気がするので、タイトルを変更。8/25 吉田秀和関連の記事へのリンクを追加。 8/13 日本音楽学会史と大久保賢さんのブログの記事へのリンクを追加。「前書き」は賞味期限切れと思われ、ウザいので文末へ移動。7/27 前書き後半に「調査の動機」を加筆。2013/1/2 吉田秀和没後の記事へのリンクを追加。]

柴田南雄に関する記事が一段落ついた気がするので、まとめを兼ねて、一覧できるようにしておきます。

柴田南雄の作品集CDが企画されていたり、著作が復刊されつつあるタイミングでこういうことをすると、なんだか相手がゴール前にシュートを狙って飛び込んでくるのを見越して、オフサイド・トラップをかけるズルイ奴みたいで恐縮ですが……。

音楽・出版の世界にオフサイドのルールはないですし、「戦後作曲・音楽学界の偉人」を顕彰すること自体は立派なことだと思うので、どんどん得点ゲットしていただきたいと思っております。

ご遺族・関係者やシアターピースを愛する合唱界の皆さまの、故人を敬愛して、音楽を愛する心を何ら疑うものではありません。

(自伝『わが音楽わが人生』は、貴重な情報が詰まっているので、この勢いで是非とも復刊していただきたい!)

わが音楽わが人生

わが音楽わが人生

ということで本題です。

【柴田南雄の研究(?):まとめ】

(1) 1949-1950年:バルトーク論

柴田南雄は、戦後バルトークを勉強して、『音楽藝術』に連載記事を書いたことで、「ザ・柴田南雄」への道を歩み始めたのでした。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1 *下記(5)の自伝にもとづく補足もあわせてご覧下さい。

参考:小倉朗

そしてこの頃、彼とつきあいがあり、本人もバルトークへ傾倒することになるのが小倉朗です。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110706/p1

小倉朗の家で、柴田は吉田秀和を通じて、別宮貞雄とも親しくなり、その師・池内友次郎から短期間レッスンを受けた形跡があるようです。

→ 大久保賢さんの記事 http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/21042387.html

参考2:このように柴田南雄と親しかった1950年代の吉田秀和が、私たちのよく知っている1970年代以後のスタイルを確立するに至る経緯について

[追加:吉田秀和没後に書いた記事]

参考3:柴田南雄と吉田秀和を「高度経済成長」という時代の枠組みのなかで捉える試み

参考4:企業人・マスコミと20世紀音楽研究所の現代音楽祭

柴田南雄が吉田秀和とともに関わっていた、あまりにも有名な活動について、狭義の「現代音楽」の外部への広がりにも配慮したり、外部から見る視点を得るための道標

(2) 1950年代:20世紀のオペラの紹介

柴田南雄は、NHKのラジオ解説者としても能力を発揮。折しもLPの黎明期、オペラの全曲録音が出始めた頃で、彼が紹介した音盤は、オペラ興行にも思わぬ(実は計算?)波及効果を及ぼすことになりました。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110428/p1 *下記(5)の自伝にもとづく補足もあわせてご覧下さい。

参考:

(3) 1960年代:東京藝大楽理科教授として

柴田南雄は1960年代を東京藝大楽理科教授として過ごすことになります。『印象派以後』は、藝大楽理に東大閥が形成された副産物だったようです。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110406/p1

続報:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110515/p1

参考:

  • 日本音楽学会の黎明期の歴史の長大な作文ですが、柴田について2箇所で言及しています。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110806/p1
  • 東京藝大での柴田南雄の和声の授業について、大久保賢さんの考察。(私は疑り深い性格なので、足立美比古といえども(というより、破格の人であるからこそ)、平行5度や平行8度のようなベーシックな禁則を犯したうえで、「なぜダメなのか」と柴田南雄に食ってかかったのではないか、そのように破格な学生だったからこそ、柴田南雄や船山隆の記憶に残ったのではないかと思いますが……。)→ http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/21042387.html

(4) 1970年代:シアターピース「修二会讃」のこと

そして柴田南雄の1970年代以後の代表的な仕事といえばシアターピース。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110322/p1

(5) 1995年:自伝『わが音楽わが人生』

柴田南雄は死の前年に自伝をまとめています。リンク先は、バルトーク論などについて、自伝を読んた上での補足。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110619/p1

(6) 1996年〜:柴田南雄音楽評論賞

死後、彼を顕彰するべくアリオン音楽財団が運営している柴田南雄音楽評論賞について。

→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110627/p1

(戦後のオペラ上演史では、最近、「青年グループ」とともに、栗山昌良さんたちの「スタッフ・グループ」のことも気になっているのですが、これは、柴田南雄とは逸れるので別の機会に。)

      • -

こうして並べてみると、柴田南雄のことを書いたのは3.11.の直後の「修二会讃」の話が最初だったのですね。

3月11日には、芸術選奨評論部門の文部大臣賞を渡辺裕が受賞したと発表されたのでした(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110317/p1)。

折しも、先週末には、同じく芸術選奨文部大臣賞を得た三輪眞弘さんを招いて、京都市藝術センターでシンポジウムがあったようですが(http://www.iamas.ac.jp/~yoshioka/Post311.html)、吉岡洋さんの提唱によると思われるこのシンポジウムは、なんだか、三輪さんが京都の芸術学の人達に人質に取られてしまったような印象があり、問題設定に関してはノーコメントを通したいです。(岡田暁生、何をやっているのか、と。)

柴田南雄というと、阪大時代の渡辺裕先生から、昔、柴田家へご挨拶にいって、鉄道模型の話で盛り上がったのだと伺って、いつも、それを思い出すのです。

この時期に柴田南雄のことを色々調べたのは、3.11.を踏まえて、わたくしなりに「渡辺裕を考える」ことだった、とか言うのは……、話がうますぎるでしょうか。

(「白石知雄は、渡辺裕の容姿を揶揄する。困るんだよねえ……」というような笑い話へ落とし込まれてしまうのは、まあ、それはそれで面白いからいいですけれど(笑)、もうちょっと別なことも考えてはいるのだということで。)

      • -

[以下、当初は「前書き」として、最初に掲げていた文章です。]

柴田南雄については、1990年に国際音楽学会のシンポジウム(関係者は「シムスSIMS」の略称で呼んでいた)を大阪でやったときに関連イベントとして「宇宙について」などを上演するコンサートがあり(私は院生で裏方の手伝いに駆り出されていたので聴いていません)、シンポジウムの会場に本人が来ていたのを目撃したこともありましたが、

「この人の背景には何かがある」と思ったのは、1976年の『音楽芸術』で、大々的な柴田南雄・還暦特集が組まれていたのを見たときです。「追分節考」や交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」が話題になっていた等々、それなりの理由はあったのでしょうけれど、扱いが異様に仰々しい感じがしました。この人の「名声」の背後に何があるのか、とその時思いました。戦後音楽史で、特定の個人が「偉くなる」力学とはどのようなものだったのか。今回、その事例研究のようなつもりで、柴田南雄を調べました。

そしてもうひとつ、小泉文夫の評伝を読んで、東大音楽部から音楽家や音楽学者が何人も出ていることを知り、それ以来、「戦後日本の洋楽で東大美学閥の果たした役割」というのも気になっていました。

世界を聴いた男―小泉文夫と民族音楽

世界を聴いた男―小泉文夫と民族音楽

(この件は、数年前に某所の飲み会で吉田寛くんと一緒になったときに、東大出身者が是非やるべきでは、とかなり熱心に言ったのですが、彼は乗ってくれなくて、残念に思ったことがあります。面白いと思うのですけれど……。最近になってようやく、増田聡と吉田寛は随分とキャラが違うらしいという個体識別(失礼!)ができるようになってきて、「感性の王国」に遊ぶ志向が強い吉田くんが興味を持つようなテーマではないかもしれないと悟りましたが……。

おそらくこういう話は、40過ぎて、脂ぎったオッサン的なものを意識せざるを得なくなった人間がやることなのでしょう。日本の(あるいは日本にかぎらず?)戦後は、高度情報社会以前の、重工業主体で、油や煙にまみれたオッサンの領域が間違いなくあった時代だと思います。そういうのは、オッサンが手を汚せばいいのであって、知らん顔をしてやり過ごす方がスマートだと思います。

(アメリカに勝利した「なでしこジャパン」がどういう人達なのか私はよく知りませんが、45年前に宿敵ソ連を破った「東洋の魔女」は、貝塚の紡績工場の女工さんたちでした。)

そして「柴田南雄的なもの」というのは、そのような脂ぎった時代に「頭の良さ」がどのように運用されたのか、という問題であるような気がします。だから、二度とあのように脂ぎった時代が戻ってくることはない、既にそのような脂ぎったものを視界から消去する技法は確立されている(たとえばヨーロッパにおいてはワーグナーによって?あるいは日本では渡辺裕先生がかつて素描した「聴衆の誕生」によって?あるいは「動物化するポストモダン」によって?)という認識から出発する場合には、そこから教訓を得る可能性の少ない事案だと言えるのかもしれないなあ、と思います。

私は、人生いつ何が起きるかわからないと思っていますし、1970年の万博の年に5歳で大阪に出て来た身としては、そういう時代のうっすらした記憶が、ちょっと懐かしかったりもするのですけれど……。)

いずれにしても、「作曲家・柴田南雄」への尊敬から出発しているわけではなく、動機はとっても不純(笑)です。

      • -

結果的に、「近代の見直し」論(カルスタ?)っぽい感じになってしまったのかなあ、と思います。

このところの音楽研究の風潮として、

  • (1) 根拠のはっきりしない「名声」を、標的としてロック・オン
  • (2) 一番声高な論者を徹底調査して、その論調における「近代」のバイアスを洗い出す

というのが大流行しております。

音楽そのものを本格的に触る必要がなく、いわゆる「メタ」な視点から、音楽が「どのように語られたか」を扱うので、音楽の専門教育を受けていない一般大学の人文・社会科学系の学生・研究者さんには、超オススメの銘柄です。

銘柄の評価基準としては、

  • (3) 「近代とは何か」といったあたりの説明がちゃんとできれば、卒論・修論はOK
  • (4) 正当に資料を扱うことができて、勤勉に調べれば、学位ゲット間違いなし

さらに、

  • (5) 当該ターゲットが音楽関係者の内輪ネタを越えて、一般の人の知る存在・現象であれば、新書のオファーが来るかも知れない(ワクワク!「一流大学」の院生だったら、編集者のコネくらいトーゼンあるよね。なくても、学会の飲み会に行って「舎弟」になれば、「アニキ」たちが世話してくれるヨ!)
  • (6) ターゲットが、団塊世代のよく知る懐かしいネタで、彼らの「うっかりするとそう思ってしまうかもしれない思いこみ」との間にそれなりに落差のある結果を出せれば、あなたもサントリー学芸賞!
  • (7) 見事、大学にポストを得て、こうしたネタを3つか4つ集めれば、確率変動がかかって、あとはもう自動的に受賞の嵐!!

というバラ色の未来が待っています。少し前によく話題になった、団塊世代向けビジネスの典型的な実践例ですね。

文学のように、研究の層が厚い分野だといいかげんな議論はいずれ露見しますが、なんといっても音楽研究は層が薄いので、多少強引に押し切っても大丈夫。

私は、大栗裕を調べる上で必要な周辺情報が欲しいだけで、「投機」には興味がないですけれど。

あと、東京藝大・東大美学・日本音楽学会といったあたりを探っていくと、こういうエコ・システム自体の底が割れてしまいそうでもあるので、(まだしばらくは?)誰も本気ではやらないのでしょうか。私は、どんどんやればいいのに、と思っていますが。