「○○は素晴らしい、それにひきかえ××は」という語法は退屈である

問い:批評文において、「○○は素晴らしい、それにひきかえ××は」という語法を用いることの問題点を簡潔に述べなさい。

答え:

「○○は素晴らしい」と語るとき、書き手の意識は○○という現象に焦点を合わせており、○○ならざるものは、意識の焦点から外れていると考えられる。これは、○○ならざるものを十全に語る意識の構えが整っていない状態であると言わざるを得ない。このような状態で、○○ならざるものが劣って見えるのは、○○ならざるものの特性によるのではなく、書き手の意識の焦点が○○ならざるものから外れていることによると見るべきであろう。(中心人物のみにフォーカスを当てて、周囲をボカした映像の効果を想起せよ。)

同じ書き手が、次に××という現象に焦点を当てて論じるときには、○○が「××ならざるもの」の位置に置かれ、「××は素晴らしい、それにひきかえ○○は」と語ることが可能であると思われる。すなわち、書き手の意識の焦点の切り替えによって、「○○は素晴らしい、それにひきかえ××は」と「××は素晴らしい、それにひきかえ○○は」はたやすく両立してしまうのである。

以上の考察から、ある特定の現象に意識の焦点を当てている状態は、その現象と他の現象を比較して論じるのに適切な状態ではない、との知見が得られるのではないだろうか。(たとえば、いわゆる日本人論は、しばしばこの罠に落ちていると思われる。「ユダヤ人は○○だ、それにひきかえ日本人は」等々。)

そして、この、ある現象に肉莫しようとする意識の構えにつきまといがちな陥穽を、私たちは「遠近法の罠」と呼ぶことができるかもしれない。凸レンズのように焦点をひとつしかもたない状態へと意識を整えることは、複数性を抑圧してしまうのである。

光学レンズと遠近法は数々の知見をもたらした重要な発見ではあるけれど、わたしたちは、その限界に自覚的でなければならないし、人は、その限界の自覚なしに批評を書いてはならないのではないか。ある現象に焦点を合わせた状態で別の現象を論難するのは不当(もしくは遠近法の誤用・悪用・濫用)であり、そのような振る舞いに淫するのは知的怠慢と言わざるをえないだろう。

以上

(一方ちなみに、岡田暁生は、これとはちょっと違っていて、そもそも彼は、「それにひきかえ××は」という風に周囲へ意識を広げることがない。ただひたすら、「○○は素晴らしい」というところへ猛然と突っ込んでいって、それっきり。だから、ヤバいけれども、パフォーマンスとして退屈ではない。彼はきっと一生あのままなのでしょう。)

夢のあとで~フォーレ歌曲集

夢のあとで~フォーレ歌曲集

  • アーティスト: シュトゥッツマン(ナタリー),フォーレ,コラール(カトリーヌ)
  • 出版社/メーカー: BMG JAPAN
  • 発売日: 2007/11/07
  • メディア: CD
  • クリック: 12回
  • この商品を含むブログ (3件) を見る
「それにひきかえ××は」というのは、おそらく社交界の噂話の定型であったと思われます。その場にいない人をあげつらうのは、お行儀の悪いことではあるけれども、そうであるがゆえに、自堕落な饒舌には格好の話法です。そして19世紀の芸術家のいわゆるダンディズムは、そうした社交界の饒舌にまみれつつ、魂を譲り渡すまいとする処世術であったと考えられます。

たとえば、ヴェルレーヌの「月の光」は、「あなたを見つめる私」という典型的に関心を一つに焦点化した発話ではじまり、第2節で「あなた」がそこへ含まれているベルガモの仮面舞踏会の華やかな哀しさを語ります。ところが第2節の最後で、そうした華やかな哀しさを照らす「月」の語が出たところで、私の意識は「あなた」とその周囲を離れて、第3節は、月に照らされた庭の自然の描写へ転じます。

ヴェルレーヌは、社交界における意識の光学レンズ的な遠近法を逃れようとしており、「あたりを照らす月」は、光学レンズとは異なる光の在り方によって、その手掛かりになっている、と解釈することができそうです。そしてフォーレは、この詩に作曲したとき、このような詩人の意識の動きを当然察知していたはずです。

わたしたちが知っている「フランス近代音楽」は、「それにひきかえ××は」といった凡庸な語法から遠く離れようとするところに花開いたのではないかと思うのですが、フォーレはコンセルヴァトワールの書法クラスで学んでいない私学出身の「外様」であり、ドビュッシーやラヴェルはコンセルヴァトワールの問題児でした。そのような不良作曲家のダンディズムから焦点を外して、わたしたちは「それにひきかえ××は」の語法を復権させたほうがいいのでしょうか。

映画長話 (真夜中BOOKS)

映画長話 (真夜中BOOKS)

遠近法とはちょっと違う話ですが、「キャメラは見つめ合う二つの瞳を同時にひとつのフレームに収めることはできない」というのが、蓮實重彦の十八番の殺し文句だったようですね。