個人がすべての演奏会を聴くことは不可能であるという事実から、潜在的に「おフランス」かもしれない音楽批評を考える

[10/10 追記あり 同日11:24、および16:00にさらに追記。]

質問:東京や大阪のような大都市では、個人がすべての演奏会を網羅的に聴くことは不可能です。音楽評論家を名乗る人は、この事実にどのように対処しているのでしょうか?

新聞や雑誌の文藝時評は、少なくともある時期までは、すべての文藝雑誌(場合によってはこれに加えて同人誌)に目を通して、その月に発表された全小説を読んだ上で時評を書くことになっていたようです。

音楽時評も、おそらくある時期まではすべてのコンサートに行った上で書くことが目指されていたのではないかと思います。しかし、日本の洋楽雑誌に目を通した感触で言うと、昭和30年代のどこかで、この理念は崩壊したようです。東京や大阪では、同日同時刻に複数のホールで別のコンサートが平行して行われるようになったからです。

たとえば『音楽の友』は、識者が自分たちの聴いた演奏会について語り合う座談形式の音楽時評の時代を経て、ある時期から、演奏会評は、複数の評者が分担して執筆した寸評の集合になりました。個人がすべてをフォローすることができないという事実を踏まえて、雑誌の誌面上で、仮想的に全コンサートを網羅する形に切り替わったわけです。

雑誌の編集意図としては、誌面に目を通すことで、「あたかもすべてのコンサートを聴いたかのような気持ちになっていただきたい」ということだと思いますが、「すべてのコンサートを聴く」という行為が現実には不可能な、紙面上でしか成立しないヴァーチャルな体験であることは否定できないと思います。

このような現実を前にして、音楽評論家が、たとえば「関西のコンサートの現状」といったことを「包括的に」語ることを求められた場合、どうすればいいのでしょう?

実際には聴いていない演奏については、雑誌に掲載された演奏会評の集合体に目を通すことで「あたかも行ったかのような」気になって、今の関西は(あるいは東京は)かくかくしかじかである、と語ってしまっていいのでしょうか?

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私自身は、京都・滋賀の演奏会について「京都新聞」に書く仕事をはじめて何年か経ったときに、どうしても毎年同じ時期に同じ人・団体を取り上げることになりがちだったので、行ったことのない人・場所・企画を優先して、できるだけ多くの演奏会へ足を運ぶように努力して、それが随分勉強になったように思っています。

関西一円を対象にして書くようになったときにも、それに近いことを努力していた時期がありました。

でも、それだけやっても、おそらく自分で足を運んだコンサートの数は、関西一円で日々行われているコンサートの多く見積もって1割程度ではないかと思います。

たとえば関西クラシック音楽情報(http://music-kansai.net/)には、この10月のカレンダーに169公演が紹介されています。単純計算で、毎日1公演、月に30回コンサートへ行ったとしても、行ける演奏会の数は全体の1/5以下、2割以下の公演しか聴いていない計算になります。

そして私が知る限りで言わせていただけば、ほぼ毎日コンサートへ足を運んでいる人は数人です。他の方は、行ける可能性がある2割程度の公演のなかから、さらに絞り込んでいくつかの演奏会へ行くだけです。それは、評論家が怠惰だということではなくて、全部を体験するのが物理的に不可能なくらいコンサートの数は多いということです。

(現実には、コンサート情報を日々仕事として出稿してそのいくつかについては関係者を取材して、実際に現場へ足を運んでいる新聞の文化担当記者さんのほうが、ほとんどの評論家よりも多くのコンサートに行っていると思います。)

「関西のコンサートの数が少なくなったのかどうか、音楽社会学者に是非調査してほしい」などという文章を最近みかけたのですが、何を呑気なことを言っているのか、と私は思う。過去と比べて多かろうが少なかろうが、そんなことよりも、今目の前で日々行われているコンサートのほとんどを聴くことができない状態に自分が置かれているのだ、ということを真っ先に考えるべきではないのか、とわたくしは思ってしまうのです。

(音楽社会学をもちだすのであれば、特定の都市への人口・文化の極端な集中がこうした現状を生んでいるわけで、日本の近代化の在り方が実はコンサート文化に影を落とし、ひいては日本のコンサート批評という行為の特性を規定している可能性を考えるほうが面白いのではないでしょうか。何事につけ、自分自身の置かれている立場を棚上げしてモノを考えてはいかん、ということです。)

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もしかすると、そのような現実に対して畏れを感じない人は、聴いてもいないコンサートについて、「どうせこういうものだろう」と見切りをつけているのでしょうか。

あるいはひょっとすると、音楽家というものが、国際的に活躍する少数を頂点として、見習い中の音大生がすそ野であるようなピラミッド状のヒエラルキーを形成している、という通俗的な図式を鵜呑みにしている人もいるのでしょうか。そして自分が「これだ」と思った1割(以下)だけが「聴くに足る」コンサートであり、ほかは、無視してかまわない「雑魚」であると思っているのでしょうか。

本当にそうでしょうか?

そしてそのように思いこんでいる人にかぎって、自分が「雑魚」であると勝手に決めつけた大多数に向けて、「そんなことではダメだ、○○を見習って、向上心をもちなさい」という方式の説教を垂れるわけですが、本当にそれは、地域の音楽文化の向上、なるものにつながるのかどうか?

[10/10 つづき]

仮に、日本の洋楽演奏家を一種のヒエラルキー図式に整列することができて、一生評論家の目に触れることのないところで活動を続けるかもしれない方々のことを「上を目指さない人々」と形容することが可能であるとしても、その理由や事情は千差万別であるように思います。「上」にランク付けされたい強い意向を持っているけれどもそうならない、何故だ!と思っている人もいるでしょうけれど、今の生き方に満足・納得している人もいるでしょうし、「上を目指す」ことが本当に幸福なのか、積極的もしくは消極的な疑問を持っている人もいるかもしれません。

それから、これは個人的な体験ですが、ここ数年、茨木市の音楽芸術協会という団体の役員をさせていただいており、茨木市に縁のある音楽家(洋楽演奏家)の皆さまが日々どのように活動していらっしゃるかということを具体的に知っていますが(しかも役職は財務理事=会計ですので、かなりリアルに色々なことを知ってしまっております^^;;)、

音楽家の日常というのは、それはもう、美学者が想起するようなものとは全然違う。(音楽大学を出た研究者なら、当たり前のこととしてご存じでしょうが。)でも、たとえば大栗裕が実践していたような雑多かもしれない仕事の広がりと通じるところがあるのかな、と思いますし、実際に大栗裕ゆかりの演奏グループに関わっている人も茨木にはいらっしゃいます。(現在の協会の会長さんは、元大フィルの楽員さんですし。)

あと、関西の洋楽というと「阪神間文化」がひと頃話題になったわけですが、いわゆる山の手では、(東京でもそうでしょうけれど)「お向かいはN響のあの人の実家だ」とか、「息子の同級生の○○ちゃんは、こんどナントカいうコンクールで優勝した」というような話が、「そろそろ、うちの娘にもピアノを習わせようかしら」というところへ境目なくつながっていると思われます。そういう風土に、「向上心」とかいう価値観を持ち出しても、ちょっと空しそうで……。音楽評論家を場合によっては苛立たせるかもしれないピアニストや、あなたが昨日行った演奏会で隣りに座っていたお婆さんが、そういう人かもしれないですし。

理想は大切ですが、それをいつどこで誰に向かってどういう形で発進するか、ということは、本当によく考えないと、言いっぱなしの自己満足で終わってしまうような気がしております。自戒を込めて。

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[10/10 11:24 さらに追記]

具体的に検討してみましょう。

採譜(transcription)というものがある。演奏なり、あるいは、その録音なりから音のあり方を書き採ったもののことである。たとえば、以前、ここで触れたグルダの《アリア》などが、その典型だ(クラシックでは珍しいが、ポピュラー音楽では、「コピー譜」と称して、よく売られている。ミュージシャンのプレイを研究するのに、なかなか役に立つものだ)。[...]販売されている楽譜を見てみると、まあ、細々と書かれている。いささかウンザリさせられるほどに。

[...]

こうした曲やジャズなどのコピー譜を、当人の演奏をお手本に――あるいは、クラシックの古典名曲を、昔々の名手の録音を参考に――「書かれた通りに弾く」ことよりも、「それらしく」することを優先して弾くようにすることは、クラシックのピアニストにとって、かなり有意義な「演奏」の訓練になるのではなかろうか。

グルダの《アリア》 ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

文章の最初と最後をつなげると、実に真っ当で建設的な提言になっています。

でも、真ん中に、あれまあ、という話がはさまっているのです。

それを眺めながらCDの演奏を聴いてみると、確かにその通りに弾かれている(『グルダ・ノン・ストップ』というアルバムに収録された演奏が、この楽譜の元になっている)。では、この楽譜をそのまま弾けば、ちゃんとした音楽になるだろうか? 否である。とりわけ、細々と書かれた装飾的かつ即興的なフレーズについては、無惨なことになるだろう。というのも、それを楽譜に書き採るときには、どうしても元の流れまでは完全に写し取れないからだ。そうした箇所は、耳で聴くとそれほど複雑に聞こえないのに、楽譜を見てみると、何とも複雑な記譜になっている(これは、定量記譜法の制約上、仕方のないことだ)。そして、それをそのまま弾いても、元の流れは蘇らない。それをするには、やはり、採譜の元となった演奏を聴き、それを真似るしかないわけだ。この場合、楽譜は演奏のための「手引き」となる。

そうですよね。

クラシック音楽の演奏家でも普段はポップスを聴くのはごく普通のことみたいですし、ママさん音楽家の皆さんは、子育て経験で子供たちがどういう歌を好きなのか熟知していらっしゃいます。そしてそういうのを「クラシック調」で演奏する人は、まずいないでしょう。クラシックと別物で、西洋の記譜法にうまく載らない音楽だということをみんな経験的に知ってます。

こう言うと、「何を当たり前のことを」と言われそうだ。そう、当たり前である。

はい、当たり前です。

だが、「演奏の手引きとしての楽譜」ということは、何もこうした採譜についてのみ言えることではない。作曲家がきちんと書いた楽譜についても、ある程度は同じことが言えるのだ。どれだけきちんと書かれたものではあっても、楽譜は所詮、楽譜である。そしれ、それを生かすも殺すも演奏家次第である。

うーん、そうなんですが、そこは説明するのが難しい問題かもしれませんね。そして難しい問題だからこそ、専門家に丁寧に整理していただきたいところです。

が、この文章の本筋はそこではないようです。

ちなみに、グルダの《アリア》は楽譜もそれなりに売れているようで、演奏会や録音などでもクラシックのピアニストが取り上げているようだ。いったい、どんなふうに弾かれているのだろう? you tubeにも何件かあったが、どれも「楽譜をそのまま音にした」ような演奏で、興ざめさせられること夥しい。グルダ本人の日本での演奏もあったが、これはもちろん、素晴らしい。

要するに、グルダ本人の演奏は素晴らしい、ということがおっしゃりたいようです。

そして、クラシックのピアニストがグルダのように演奏できないのは、「楽譜通りに弾く」ことが習い性になっているからだ、という論旨であるようです。

でもね、さっきも書いたように、

クラシック音楽の演奏家でも普段はポップスを聴くのはごく普通のことみたいですし、ママさん音楽家の皆さんは、子育て経験で子供たちがどういう歌を好きなのか熟知していらっしゃいます。そしてそういうのを「クラシック調」で演奏する人は、まずいないでしょう。クラシックと別物で、西洋の記譜法にうまく載らない音楽だということをみんな経験的に知ってます。

と私は思うのです。批評家が行かないコンサート、演奏会情報にすら掲載されない日々のお仕事ぶりを見ていると、それは明らかです。みんな、別に「書かれた通りに弾く」ことを金科玉条にしているわけではなくて、「それらしく」弾こうとしますし、みなさんそれぞれのやり方で「それらしく」なるように工夫しています。基礎があるプロというのはこういうことだな、と私はいつも感心させられます。(歌舞伎役者の演技力、みたいなもので。)

問題は、「それらしく」弾こうとしてもなかなか上手くいかない場合があり、とりわけ、グルダは「それらしく」弾くのが困難なケースである、ということだと思います。

(すなわち、歌舞伎役者は演技の基礎ができているといっても、誰もが怪優オーソン・ウェルズや猿之助改め二代目猿翁(予定)や亀治郎改め四代目猿之助(予定)になれるわけではない。)

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この文章の筆者は、第1に、クラシックの演奏家の現状を知らずに当て推量で想像してしまったことによって、問題の所在を見誤っていると思われます。

そして第2に、著者は文章の大枠になっている提言の例としては不適切に複雑で例外的な現象を例示しているように見えます。楽譜通りではなく「それらしく」弾くのが大事といいつつ、やたらなことでは「それらしく」模倣することができないサンプルを出すのですから……。

結果的にこの文章は、楽譜通りではない「それらしい」演奏を擁護・公認する機能を十全に果たすことなく、オレはグルダという凄いプレイヤーを知ってるんだぜ、という婉曲な自慢話になってしまっているようです。

(ところが、実は「グルダが凄い」ということも割合多くの人が知っているので、若干鼻白むわけですが、それはまた別の話。)

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「演奏家への手引き」を装いつつ、具体例が自分の知っているプレイヤーの自慢話に終始する、というレトリックは、岡田暁生の『音楽の聴き方』とほぼ同型だと見ることができそうです。

岡田暁生がアマチュア音楽のススメの体裁でアドルノやバルトを絶賛するように、この著者は、楽譜にとらわれない演奏のススメの体裁で「グルダ・マンセー」を唱えるわけです。

ひとまず、この種の「啓蒙を装う自慢話」は音楽エッセイにおける「岡田派」の様式特徴だと見なすことができるかもしれません。

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ただし、この著者が同時に池内友次郎に傾倒していることを考えるとき、わたしたちは、さらに大きな文脈にも配慮すべきなのかもしれません。

というのも、池内が日本へ導入したとされる「コンセルヴァトワールのエクリチュール」なるものが、まさに「啓蒙を装う自慢話」になりかねない一面をもっているからです。

池内流の「エクリチュール」は、教科書・指導書の形で公刊されており、実際のレッスンも懇切丁寧な「手引き」として行われているように聞いています。でも、当人たちが意図したからなのか、意図せずなのか、よくわかりませんが、その周囲に「パリ仕込み」「おフランス」のオーラを発散してしまっていないかどうか? そうしたオーラは除去可能なものなのか、それとも、明言されないけれども自明なものとして、堅持されねばならないのか。

「啓蒙を装う自慢話」のおフランス的含意について、是非とも「岡田派」の皆さまの自己分析をお伺いしたいものだと思っております。

岡田暁生のモダン・ジャズ熱というのも、ニューヨークの深夜のビバップ(ドラッグまみれ)へ潜入する勇気はなくて、マイルス・ディヴィスをセレブ待遇でもてなしたパリ社交界のノリという感じがしますし。

(だいたい梅田のロイヤル・ホースって、それはちょっと……。

わたくしも、とある事情から関西のジャズの一端を見聞する機会が少し前にあったのですが、見境なく戦線拡大するのは止めて欲しいです。「岡田派」のお坊ちゃま方はホントに人騒がせで困ります。)

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[10/10 16:00 さらにさらに追記]

ただし、この案件はさらにもう一回話の前提をひっくり返す必要があるかもしれません。

先ほど引用した文章は、ブログの記事として読むと飛躍の多い強引な作文に見えますが、おそらく同じことをある種の人たちの前で一気にまくしたてたら「大いにウケる」のではないか、と思うからです。

論述の筋立てがどうか、ということは脇に置いて、「阪神間」のセレブな方々であるとか、京都の大学文化人の先生方であるとか、今は少なくなりましたが大阪の旦那衆(社長さん経営者の皆さん)というのは、とにかくひとつのことにこだわりを持っているオモロイ人が好きみたいです。進取の気風とか、独立独歩の気概、とか、そういうのですね。

先の文章であれば、楽譜にかじりつく凡百の雑魚をなぎ倒して、フリードリヒ・グルダを絶賛する身振りは、オジサマ方のハートを鷲づかみする可能性が極めて大きい。なんなら、ワシが金を出してやるから、何かひとつ企画してみろ、みたいなことになるかもしれない。(関西には出版社がないので、東京とちがって、こういうのが一挙に新書や啓蒙書の刊行につながるのは、難しいかもしれませんが(笑)。)

かつて朝比奈さんがウケたのも、(片山杜秀さんが指摘したように楽員さんを味方につけてしまう「何か」をもっていたのと同時に)決して怯むことなく、モノゴトを言い切る人であり、音楽も同様に柄が大きかったからだと思います。現在、佐渡裕さんが絶大な支持を得ているのも、めちゃくちゃわかりやすいメッセージを掲げて、駆け引きなしにまっすぐ進むからなのかも。

社長さん体質な方というのは、「こういう奴が大化けするものなんや」と言って、ポンと金を出す、鷹揚に人に惚れるタイプなのだろうと思うのです。コンサートでも、そんな感じに、猛然と我が道を進む方が時折いらっしゃいますし、なかには、それが実際に面白い場合もあり、なかには、これはかなわん、と思わせられる場合もありますが、今も昔も変わらない「芸事」の類型のひとつではあるのでしょう。

引用した著者は、その意味で、(そして岡田・伊東両氏に気に入られている「引きの強さ」を含めて)まことに前途有望であり、コセコセした辻褄合わせなどやらずに、そのこだわりに邁進すべきなのかもしれません。

(お父様は加賀百万石の金沢で一時は画商を営んでいらっしゃったということですから、まさに、そのような文化・階層のお生まれでいらっしゃるわけで、「ヒトは生まれ育ちで決まるのでございますのよ、奥様」ということです。

そしてこれは、引用した著者の語りのモードが、彼の忌み嫌うかに思われる「俗悪」で「非音楽的」な社交文化と極めて親和性が高いという逆説的な事態でもあり、そのあたりを含めて、「岡田派」だなあ、と思うのですが……。)

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さてしかし、この種の社長体質な文化は、もちろん別に関西の特産品というわけでもないと思います。

たまたま大阪は「商都」の看板を掲げており、そこの老舗楽団に朝比奈隆という巨大な実例が君臨していたので、関西の洋楽全体が社長体質であるかのように見える局面があるかもしれませんが、

たとえば、ゼロ年代に入って世界的にネオリベ旋風が吹き荒れて、日本でもITベンチャーなどが話題になった頃には、梅田望夫さんとか、音楽では片山杜秀さんとか、福澤諭吉先生の流れを汲む慶応文化人な方々のご活躍が目立ったように思います。ゼロ年代は、「官」の東大でもなければ、「在野」の早稲田でもない慶応の華麗な人脈が表舞台に躍り出た時代であったような気がします。そして慶応の社交的な雰囲気は、水村美苗さんとか、小鍛冶邦隆さんとか、帰国子女的・洋行帰り的なコスモポリタンとも相性が抜群で、彼らを前面に押し立てることで「英語の世紀」を生き抜こう、みたいな風向きが少し前まであったように思うのです。

で、関西の社長体質な方々は、こうした風潮にもはまりやすくて、岡田暁生は楽しい日々をお過ごしになったわけですが、

ひとつだけ違うかもしれないと思うのは、オタク・サブカルを経過したせいなのか、東京の片山さんが、イケイケに見せつつ、「(文章で)できるだけ嘘をつかないように心がけている」とどこかでおっしゃっていたような用心深さを同時にお持ちなのに比べて、関西から乗り込んだ人たちは、どうも脇が甘いし、脇の甘さを面白がられて、調子にのる傾向があるような気がします。

脇の甘いタイプであるほうが、都合が悪くなったときにポイと切り捨てるのも簡単ですから、使う方はむしろ使いやすいと思われ、見事に利害が一致、需要と供給のバランスが取れてはいるわけですが、大丈夫かいな、と傍目に思ってしまうのです。

だからこそ、(別に他人の生き方に口だしするつもりは毛頭ないけれども)話がグルリと一周して、苦し紛れに大風呂敷を広げるのは、ほどほどにしたほうが身のためではないかと思うのですけれども、進取の志・独立独歩の気概が胸の内に沸々と煮えたぎる方々には、そんな言葉は届かないかもしれませんね。

まあ、世の中というのは、浮き沈みがあってナンボ。何歳になっても、懲りないヒトは懲りないものなので、ご随意に、ということではありますが。

(讀賣関西版の大久保賢と、朝日関西版の小味淵彦之が二人並んで『音楽の友』のグラビア・ページに登場して、「独立系音楽評論家による関西楽壇メッタ斬り」とか、実現する日がくればいいのに、と結構本気でわたくしは思っているのですけれど……。というか、今すぐにやっても、そこそこ面白そうだと思うのですが。いずみホールのJupiterあたりでどうですか? 紙が無理ならウェブ版とか。なんといってもこのお二人、一度見たら忘れない立派な文字面のお名前をお持ちのところが出版物にぴったり。名を高めたい意欲満点の人にこそ立派な神輿に乗ってもらいましょうよ、どこか是非!)

[10/10 22:50 短く付記]

話し言葉と書き言葉をそういう風に対比すると、楽譜は楽譜に過ぎない、と書いていたのと矛盾してしまう。いきなり一般名詞で語ろうとするのを止めたほうがいいのではないか。

  • 「私はグルダに感激した」
  • 「YouTubeでみつけたグルダの「アリア」の演奏はヘボかった」
  • 「筋の通った文章を書こうとして編集を繰り返していると、いつしか筋道が見えなくなる」

等々という個々の認識の束がある、ということでいいのではないか。それを性急に手近な概念枠に収めようとするから、身の丈に合わないツンツルテンのスボンを履くように帳尻が合わなくなるのではないだろうか。そしてそういう無理矢理な概念のブン回しは、論文なるものを強引に期日までにでっち上げねばならない学生時代にはそれなりに効能があったかもしれないけれど(この哀れな高学歴ワーキングプアの所業に神の恵みのあらんことを)、日常生活では人騒がせだから止めてくれ、と私はずっと言っているつもりなのだが。それは、あなただけに襲いかかる深刻で逃れがたい運命ではなく、明治の書生さん以来、無数の大学院出身者がしばしば患ってきた事大主義という名のよくある病気に過ぎませんから。