[11/19 最初と最後に、鶴田錦史の評伝について、短いコメントを追加。]
↑タイトルに名前が出ていませんが、武満徹「ノヴェンバー・ステップス」の初演者として知られる鶴田錦史の評伝です。初出は『女性セブン』の連載なのだとか。「男性的」とされる薩摩琵琶の鶴田錦史を女性誌が取り上げて、それが「さわり」という平仮名の題で本になったわけですね。“彼女”の数奇な生涯を優しくきれいな形に包むやり方が見つかって、よかったんじゃないかな、と思います。
- 作者: 佐宮圭
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2011/11/02
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武満徹を「清浄な人」としてブランド化する小学館の一連の仕事に鶴田錦史が回収されるかのようなところは、多少気にはなりますけれど。(一連のタケミツ関連本と並べて違和感のないブックデザイン……。)
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京響は今楽員さんの粒が揃って、安定していますから、抜き打ちで聴いても満足度は高いでしょうね。
http://yakupen.blog.so-net.ne.jp/2011-11-16
「アメリカが、ヨーロッパの音楽を大西洋の反対側から眺める距離感は、日本がヨーロッパの音楽にユーラシア大陸の反対側から思いを馳せるのに似ており、洋楽に関して、日本とアメリカはヨーロッパという同じ「親」をもつ兄弟のようなものだ」
という論調がありますが、ロバートさんがちょっと前までコロンバスにいたミスター・ヒロカミを絶賛するのは、東アジアの地方都市で英語を流暢に話す人間と出会ってほっとした、ということなのではないかという気がします。この感じは、むしろ、「アメリカ人は世界中どこに行っても英語が通じると思っている」という俗説の音楽版のような気がします(←批判とかではありません。まあ、そういうもんだろう、と)。「アメリカと日本が文化的な兄弟だ」というのは、こちら側の一方的な願望が入っていそうですね。
そのような認識を英語でアメリカ人に伝えることで、お互いの「連帯感」が高まり、make friends のきっかけになる、というよりも、アメリカさんはそういうものだ、と日本人が自前で納得して現状を肯定する国内向けの説明なんでしょうね。
ともあれ、ロバートさんが関西を楽しんでいただけたのであれば、なにより。
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http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/21906512.html
「家元制度」みたいなものが「外国」(とはどの国・地域を指すのか?)にもある/ない、という話は、身も蓋もない言い方をすれば、「家元制度」の定義によるんじゃないでしょうか。
私の語感だと、日本の「家元制度」批判は、資格制度や集金システムを編成することがダメだというのではなく、「前近代」の「遺物」をいつまで温存するのか、という話なのかなあ、という気がします。家元を家元として庇護する幕府はなくなっちゃったのに、と。そして、支えを失った「首のない胴体」みたいなものが、「近代」をどうにか生き延びようとする姿が異様で忌まわしいものに見える、と。
でも、「首がちゃんと付いている」=時の為政者のお墨付きをもらうことが正常と異常を分ける決定的な基準である、とは私は思わないので、私は「家元制度」批判自体にあまり興味がありません。
そういえば、ロバートさんが聴いた3つのオーケストラのうち、大フィルだけが民間団体で、京響も兵庫のPACオーケストラも地方自治体が運営する団体ですね。大阪のオケは、定期演奏会の会場も民間施設。
お金も人材も情報も東京へ一極集中しているご時世に、4つのオーケストラが常設の民間団体として存続しているわけで、色々なものが足りないところでこれだけやってるのは、大したものじゃないか、というのが、大阪のオーケストラとおつきあいするときの、わたくしの基本的なスタンスです。「首のない胴体」があちこちに蠢いているのは、不思議でも何でもない常態である、と。
[追記]
取材を始めてまず驚いたのは、日本の伝統文化である「琵琶」が、いま、滅びつつあることだった。趣味で琵琶を弾いているひとすべて合わせても千人に満たず、琵琶の演奏や教授のみで生計を立てているひとは二十人もいなかった。(22頁)
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ロックやJ-POPのような「より大きい」ジャンルを見上げながら、人は、ジャズはマイナーだ、クラシック音楽はマイナーだ、と卑屈なふりをして言うわけですが、日本の伝統音楽の「市場」は、ジャンルによっては、もはや「市場」という言い方ができそうにないくらい小さいようです。この規模でどうやって存続させるか、ということを、クラシック音楽という相対的に「メジャー」で、相対的に「大きい」ジャンルの基準で測ろうとしても、話はかみ合わないかもしれませんね。
(数年前、岡田暁生が、尺八と銅鑼を組み合わせるパフォーマンスを、何か穢らわしいものでも見るかのように軽蔑している光景を目撃したことがあります。
そのときの銅鑼の演奏は、小さなホールで尺八と共演するのにふさわしい絶妙のバランスで配慮に満ちた立派なものだったのです。邦楽に対する深い理解がなければ、ああはできない、と私は感心したものでした。
「尺八はワビサビであり、銅鑼はけたたましい。その組み合わせはグロテスクである。」そのような決めつけで終わってしまう岡田氏の耳は、「俗物性」によってあっけなく曇る程度のものなのだな、と思う決定的な場面でした。)
しかも、琵琶は明治以後一直線に衰退したのではなく、大正期には美少女琵琶ブームのようなものがあったのだとか。(ちょうど女義太夫が流行ったのと同じ頃ですね。)そういう浮き沈みを経ての現在なわけで、朱鷺のように絶滅危惧種として保護すればいい、ということなのかどうか。
不祥事が続く相撲協会に対して「協会の体質を改めてもっと透明性を高めるべき」「競争原理が前提のフェアなスポーツとしての意識改革が必要だ」という意見が多いようですけれど、私には違和感があります。
相撲について (内田樹の研究室)
批判の的になっているのは相撲協会の「古い体質」ですが、「新しい体質」こそが問題なんです。
最近はあまり言わなくなったが、「宗教の勧誘」などという失礼な言い方があった。おおよそは、子供を連れた女性が、ものみの塔(エホバの証人)などのパンフレットを持って訪れてくるのである。「布教活動」と正しく言うべきであろう。(122頁)
- 作者: 小谷野敦
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