その巻頭メッセージは誰が書いているのか?

個人が団体を「顔」として引っ張っていく形は、対外的にわかりやすくもあり、メディアにも乗りやすい。身も蓋もなくその人の「顔」や人となりを報道すればいいわけですからね。

でも、人に寿命があるように、個人の「タレント」には限りがある。そういうのは短期戦向きであって、それだけでずっとやっていけるわけではない。

大阪フィルが2011年度を大植英次の「音楽監督ラスト・イヤー」ということでグイグイ押して、2012年度は、色々な指揮者や曲目が並ぶ「みんなの大フィル」路線へ転じたのは、その意味で理にかなったことだと思います。

今月の定期のヨハネ受難曲は、ヴィンシャーマンと仲間たち、という感じに、合唱(弱音でピッチを維持するのは難しかったか)やソリスト(関西・関東混成)や古楽器(なにげに豪華メンバー)を揃えて、大フィル(編成が小さい)は、自分で主役を張るというより、色々な人をお迎えして特別な場を提供する包容力みたいなものを示す形になっていました。いかにも今年の大フィルを象徴するような光景と思いました。

で、それはいいのですが、プログラムの巻頭メッセージが、誰が書いたのかわからない無記名なのは、個人を立てない「みんなのオーケストラ」という発想が行きすぎたのではないか。

会場でプログラムを開くと、いきなり、その場を支配する不可視の絶対者の声が響く、という感じで、ちょっと居心地が悪い気がするんですよね。

具体的に誰が書いたのか、ということはともかく、文面から判断すると主催者(大フィルさん)からのメッセージだろうということは察しがつく文章ですから、「大阪フィルハーモニー交響楽団」と署名を入れていいんじゃないか、そのほうがいいんじゃないかと思いました。

誰が主催者なのか、責任の主体がはっきり見えているからこそ、その場で「みんな」が安心して楽しめる、ということだと思うんですよね。

名前をちゃんと出して、主催者からお客様へのメッセージ、という枠組みを明確にするほうが、ついつい筆が滑って、「宣伝」をお客様へ押しつけてしまいそうになることへのブレーキにもなると思う。

ちゃんと主催団体の名前でメッセージを出すことによって、現場担当の個人に見えないところで過剰な負荷がかかって、そこから色々な問題や誤解が派生することを防止する安全弁にもなると思う。

署名は重要。

次は大植英次のマーラー9番で、「冠桂指揮者」という新しい肩書きがオーケストラにとってどういうものなのか、とか、色々みんなが注目しているはずですから、プログラムを開いた最初の頁は、是非ともビシッと決めていただきたいです。

(……と、同じ場所に2年間名前をさらして「聴きどころ」を書く試練(?)に耐えた人間が、嫌味な音楽評論家に戻って、たまには重箱の隅を突く苦言を呈してみた。)

[補足]

以下、蛇足にはなりますが、コンサートのプログラムに規則や書式があるわけではないですし、聴衆としては、手にとって読んだ結果が面白かったり、コンサートへ行く楽しみが増すような何かの効果があればそれでいい、というだけのものだと思います。

プログラムには、こういう情報がだいたいこういう順番で載っているものだ、というのは、曲目解説などを含めて、色々な歴史的経緯でとりあえず今はある程度の共通ラインができている、というだけのことだと思います。

そのあたりは、演奏が終わると拍手で演奏者を讃えるものだ、ということになっているのと同じような「習慣」に過ぎません。

そして、単なる「習慣」なのに、通い慣れた人の間にはだいたいこういうものだ、というような共通認識ができていることが、ときには、文化の型として同じ場を共有している連帯意識を高めることもあるし、ときには、窮屈な感じにコンサートへ来た人を縛ってしまうこともある。(みんなと一緒に拍手することで一体感が高まることもあるし、「今拍手していいんだろうか」と妙な戸惑いが会場を縛ってしまうこともある。)

そういった「習慣」を踏まえつつ、そこへ従ったり、ほんの少し違う風にずらしたりするのも、コンサートの楽しみのうちなのだと思います。(そういえば今回の定期のヨハネ受難曲は、第1部のあとで休憩が入って、ヴィンシャーマンが「拍手はなしネ」というようなジェスチャーをしたので、静かに客席が明るくなる独特の作法になりました。あれも、「教会の行事」っぽさを結果的に感じさせて、私は悪くないと思いました。でも、別の意見もあるかもしれず、まあ、コンサートというのは、そういう風に色々な思いがその場へ渦巻くところが「ナマモノ」なわけですね。)

で、わたくしとしては、「苦言」と言いつつ、こういう文章を投げかけておくと、次に大フィルの定期へ行ったときの楽しみが増えていいんじゃないか、というようなことを考えているに過ぎません。

さあ、今度はどんなプログラムなんだろう、とページを開くのが興味津々になればそれでよくって、「かくあるべし」とか、正解・不正解の採点をしようとかいうことは、一切思っておりませんので、誤解なさいませんように。

(そういえば、拍手については、「正しいやり方」を指導したい人が多いようで、最近では、拍手のやり方を主催者がプログラムに書いて誘導するケースまであるようで……。でも、そこまで大層なものではないだろうに、と私は思っています。

音楽の「余韻」を楽しむために、演奏直後の間髪を入れない拍手は無粋である、というのが今の日本では最も良く耳にする意見ですけれど……、

でも、前にも書いたと思いますが、演奏の後に「無音」の状態を期待するのは、コンサートの習慣ではなく、リスニングルームでCDを孤独に「鑑賞」することで形成された習慣なのではないか、と私は疑っています。

演奏後の「無音の余韻」なるものは、マイク・モラスキーが日本のジャズ喫茶というユニークな文化について指摘したのと似たような意味で、複製音楽との日本流の付き合い方が色濃く表れている習俗のような気がします。

戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ

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私は、すぐに拍手して、あんなに長々と何度もアンコールせずに、さっさとコンサートが終わってもいい気がします。そうすれば、終演後に時間ができて、そこで、おいしいお酒でも飲みながら、たっぷり「余韻」に浸れるかもしれないわけですし……。

何にせよ、コンサートは、お互い見ず知らずの何百人からそれ以上の人が自発的に同じ場所へ集まる奇跡のような場なのですから、窮屈な感じを強めたり、変な緊張が走ったり、何かを押しつけられたりするような仕掛けで、自発的に人が集まる幸福感を減らしてしまうことは、少なければ少ないに越したことはないと思うんですよね。

プログラムの巻頭メッセージというのも、わたくしは、そのような快楽原則の線で、どうすればより楽くなりそうか、ということで考えております。

メッセージがビシッと決まって、「大フィルかっちょいい」とコンサートへの期待が高まりさえすればそれでいいのではないかと。音楽で言えば、まだ、主部へ入る前の序奏ですから、あんまり重厚で足が止まってはいけないし、軽すぎると、「なくてもいいじゃん」ということになるし、匙加減ですよね。まあ、ルールなしのなんでもありで結果次第、というのは、ライヴ・パフォーマンスにかかわる事柄全般に言えることですが。)