分析哲学と世界制覇の夢

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20120615/p2

(社会の)全体性という地平との関わり方で「自由な私人としての市民/公民としての市民/テクノクラシー」を分類する、という説明に納得。

現場主義がどうしたこうした、大学/学問ってのは効率じゃなくてどうしたこうした、という果てしない愚痴は、これで片付く。

また、「私人/公民/テクノクラシー」という整理がすっきりしているがゆえに、この三すくみに耐えるしかない三角形を垂直に貫く世界制覇を発作的に欲望する人が後を絶たず、それで話がややこしくなるのだろう、という風にも思いました。

1990年代にオウムと分析哲学が同時に浸透したのは、そういうことではなかったか?

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優秀なエリートさんのなかには、優秀であるがゆえに、「ここをこうすればスイスイと世界制覇できるんじゃね」という絵が見える(絵が見えたと信じる)タイプの人が一定数いるらしい。

そして、オウムの事件が当時の若くて野心的な大学院生を怯ませたのは、自分自身のなかにある世界制覇の欲望のショボイ陰画を見せられたような気がしたからだったようです。

(私は、何かを制覇したい欲望を持たないので(←そのような欲望はほぼ皆無、これはこれで人間的欠陥ではないかと思うことがありますが(笑))、そのような「怯み」を体感することはできませんでしたが、当時の周囲の連中の振る舞いやのちの発言・証言を総合すると、どうやら、そういうことであったらしい。)

さてそしてオウム現象というのは、世界制覇を空想(妄想)することを、そのような欲望としてストレートに言明することへの抑圧が働いて「宗教」と呼んでしまった、というような事態だったのだろうと思うのですが、

他方で、分析哲学が熱心に学ばれたのも、哲学の刷新、という表向きの説明とは別に、それが現在の世界を制覇している国の思想だから勉強するのが世界制覇への道である、というような欲望が働いていた(いる)のではないか?

坂の上に雲を見た明治・大正には、新興ドイツ帝国のあれこれを学ぶことが世界制覇への道に見えたけれど、今はアメリカだし、だったら、分析哲学だろう、と。

(そして、シェンカー論だのピッチクラス・セット論だの、というようなものに帰依する人が出てくるのも、同じことなのではないか?)

私人としての日常的な言語運用の分析が一般理論へと通じ、しかも、議論のシステムは見事に分業化されつつ広範囲へ浸透しておりますから、分析哲学の網の目にアクセスすることで、世界を真に動かしている組織の一員になったような感覚を得ることができる。

たぶん、分析哲学の魅力はそういうことなのでしょう。

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私が、嬉々として「日常性」なるものを分析哲学する人に対して思うことは、常にひとつしかありません。

ヴィトゲンシュタイン以来の分析哲学の十八番であるところの「色」の話はするな。「色」を「私人の体験」の代表格であるかのように扱うな。どうしても「色」の話をするんだったら、あなたが今「色彩論」を語りかけている相手が色盲であることを当然の前提として話を進めなさい。

ということです。

その人は、色盲であるにもかかわらず藝術学へ進学して音楽学を学び、色鮮やかな美術・絵画の歴史と理論の概略を特段の支障なく習得しているかもしれない。そのうえ、研究上の必要からオペラを学び、美しい照明で定評のある演出家による「カルメン」の舞台で、タイトルロールの身にまとう衣装が赤く際立っていることを当然のこととして理解しているかもしれない。

つまり、色盲の日常は決して「無色」ではない、ということです。

そしておそらく、モノクロ映画というものも、それが最先端の活動写真であった時代には、「無色」ではないものとして楽しまれていたのではないか。そして本当にフィルムが「総天然色」(←なんとも味わい深い言葉です)に着色されてしまったとき、人はちょうど、コミックがアニメ化されて、声優の声に違和感を覚えたのに似た失望を感じたのではないかと思う。この場合の「有色/無色」とはどのような位相にある現象なのか。

しかし一方で、その人は、自分の愛した女性が特定の色に特別な愛着を覚えていることを何年もつきあっていながら一切気づかず、そのことで、致命的なすれ違いを演じてしまっているかもしれない。

世界が「色つき」であることが波乱と緊張をはらむ大事件であるような日常(それはそれで結構楽しい)が、あなたのすぐ隣で生きられている可能性を想定しない日常性の哲学とは、なんと抽象的なことであろうと、私は常々思っております。

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欧米では、ユニバーサルデザインの観点から、色彩を記号として用いることに慎重であり、運用の留意点やノウハウが蓄積しているようですが、日本には、まだ、なかなか十分には浸透していないようです。

ひょっとすると、欧米の分析哲学者とだったら、案外、普通に話ができるかもしれない気がしますが、問題は、「世界制覇」の欲望を胸に秘めつつ分析哲学に邁進する日本の知識人、という類型です。そのような一群の人々は、概して、どうしようもなく無神経であることが多い。だから私は、日本の分析哲学が嫌いなのです。

あなたが制覇しようとしている「世界」とは、いったい、どこのどんな人たちが住む世界なのか?

「赤」の誘惑―フィクション論序説

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