市長が交替したことで大阪の文化・藝術が激変したとは思えない

[最後に、街場の画廊とオーケストラの乱立、というアイデアを追記]

前のエントリーで、今の市長さんは新種のテレビ番組みたいだ、と書いたら(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120729/p1)、生ぬるいというご意見を頂戴したので、なんとなくダラダラ補足してみます。

【柄谷】 最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。[……]別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。

associations.jp:『週刊読書人』による柄谷行人氏へのインタビュー

橋下以前と以後もそんな感じで、私には何かが激変したとは思えないです。

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大阪センチュリー交響楽団(当時の名称)は、橋下氏が知事になる前からなんだか妙な雰囲気のオーケストラでしたし、吹奏楽は、健全な青少年の育成という看板が表にあるので、具体的に何がどうなっているのか、かえって把握しにくい分野ですし(高校野球ビジネスとやや似ている)、日本の民間のオーケストラは、どこも、未だかつて経営が楽だった時期などなくて、ずっと「青色吐息」です。

新しい知事・市長がやったのは、前からそうであることを、たかじん(や紳助)のもとで学んだ「番組」の手法で表沙汰にしただけのこと。

「うちはずっと苦しくて」と前から考えていた団体はそれなりに対応しているし、そうじゃないところは、急ごしらえで色々対応しなければならなくてあわててる。それだけのことじゃないかと思う。

そして、前から変だったところは対応が変で、苦しいのが当たり前なところは、苦しいなりに生き残る方法を見つけようとしている姿勢が周りに伝わっているみたいだから、結局のところ、前も今も、何かが大きく変わったわけじゃなく、収まるところへ収まっているんじゃないですかね。

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だから、何が嘘かというと、「橋下の登場で大阪の文化・藝術に激震が走っている」という煽り文句が嘘なんだと思う。

橋下クンが現在放映中の、素っ頓狂なアンチャンが知事・市長をやってみる、という「番組」に比べて、その橋下クンについて報道する本物の放送局の番組(どっちが「本物=リアル」でどっちが模造品なのか、今やよくわかりませんが(笑))のフォーマットが、「市長は権力を濫用している」とか、「文化・藝術は何があっても守られるべき心の灯である」とか、妙に古くさい。そうして、外から眺めている人にはこの古くさいフォーマットの情報しか手に入らないものだから、反応が時代がかって大げさになっちゃうんだと思います。

前から楽じゃない業界が、今もやっぱり楽じゃないよね、というわけだから、差し引き、何も変わっていないわけで、何も変わっていないから平気な顔をしているだけなのに、それを「生ぬるい」と言われても対処に困る。(広く一般に共有されるべき性質の事柄なのかどうかも、よくわかりませんし。)

それでも報道番組の街頭インタビューみたいに、紋切り型で困った顔をしてみせなければいけないのでしょうか?

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怪獣が暴れて大阪城に襲いかかっている特撮のカットがあって、そこに、逃げまどう群衆(エキストラ)を怪獣目線の俯瞰で撮影したカットをつなぐ(小道具を上手に使って、火の粉が絶え間なく降り注ぐ絵を作れたら、さらに画面が派手になってイイ)……というのは、観れば人情としてついグッと来てしまいますが、でも、ひとつの街のゴチャゴチャした諸団体の折衝政治の戯画としては大げさすぎるのではないか。ウルトラマン対ゴモラ(←子供の頃、人形を持っていた)じゃないんだから。

お子様向けの平成のウルトラマンや戦隊ヒーローものは、もう、そんなことでは済まなくなっているらしいという話を耳にすることがありますが、政治報道は、大阪のことでも、東京の小沢という人のことでも、どうしてあんなに紋切り型なのでしょう?

そんなものを強要されても困る。

そして繰り返し確認しておきたいのは、(1) テレビが橋下をそのように番組化しつづけている、というのと、(2) 橋下チームのやっていることがテレビ番組的だ、というのは、別のこととして区別したほうがいいだろう、ということです。橋下チームは、「きっとテレビはここを切り取ってこんな風に使うだろう」というくらいのことは事前に予測したうえで行動して、なんだか、政治家というより、番組に素材を提供する下請け会社を税金で運営しているかのようですが、その素材を編集して電波にのせるのは、放送局がやっていることです。

で、これだけでも話がややこしいのに、加えてさらに鬱陶しいのは、テレビがそういうのを制作するのは商売だからいいとして、お金にもならないのに、誰に頼まれたのか個人が自由意志で物語に感染しちゃうこと。その上、物語に同調しないものを「生ぬるい」と指弾する、とか、そんな翼賛自警団のようなことは止めて欲しいです。

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ヒトの善意の恐ろしさ、というのは、おそらく民主主義とされるしくみをこの島に実装するときにとても大きな問題で、よかれと思ってやってしまうおせっかいは、いつまでも笑ってすまされてはいけないのではないか、と最近よく思います。よその国には、KKKとか、ナチ親衛隊・突撃隊とか、個人個人の小さな善意やお人好しを恐ろしい暴力に育て上げた組織があったりするのですから……。

善意や人の良さは、いわゆる経済効率とは逆で、マン・ツー・マンで小さく区切って使うときに最も大きな効果を発揮するのではないか。広範囲に大量に集めると、どこかで負のエネルギーに変位・転化するやっかいな性質をもっているのではないか、と思ったりするのです。

松下幸之助さんの「明るいナショナル」は尊敬されるべきところがあったのかもしれませんが、塾生を集めて平成維新、というのは、なんだか不気味ですよね。

東日本は、昨年来、原子核分裂という、これもまたやっかいな潜在兵器の処遇で手一杯なようにお見受けします。東大という賢い人を大量生産する国家装置もあることですし、この際だから、東日本の皆さまにはそうしたテクノロジーの処遇をどうするか、という問題に専念・特化していただいて、その間に、西日本のほうでは、善意や人の好さ、という、とりわけ戦後の世の中が蓄積してきた「ぬるい」けれども実は相当にややこしい案件を一生懸命考える、という風に役割分担したらどうでしょう。

丁稚でも読める総ルビの小新聞(=朝日・毎日)とか、甲子園に賭ける青春とか、労音とか、フォークソングとか、エロとど根性とか、お笑いとか、関西は経済の地盤沈下を慢性的に指摘されながら、そっち方面では色々なものを発明・運用してきましたし、橋下クンの登場は、そのような善意・人の好さ方面の功罪(自治体が市民に愛された軍楽隊を緊急避難的に引き取るとか、空襲の焼け跡になんとか復興した人形劇に色んな組織(国や府・市だけでなくNHK大阪までも)がお金を出す、とか、朝比奈さんは70歳になっても80歳になってもまったく引退しそうな気配がないから、若手がのびのびやれるオケをもう一個大阪に作ってやろう、と関係者がまだ税収がかなりあった時期の自治体の金庫を当てにして画策したのも、その時点では「良かれ」と思う気持ちが絡むやりくりであったはず)の総決算・集大成ということで色々なことを考えるいい機会じゃないでしょうか?

あの素っ頓狂なお兄ちゃんに、何千億とかのオーダーの財政をハンドリングできるとは到底思えないし、それはもう「番組」の範囲を超えてシャレにならない。そっちはどうせダメなんだろうから、小さい領域で大きく安全にひとしきり騒いでいただければ、それでいいんだと思うのです。たぶんそれが「民意」なんじゃないですか?

連日同じ本をご紹介しておりますが、

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

「徳川時代の町人は、武士たちの歴史物語に自分たちが登場しないことをよく知っていた」、「だから、時代ものの隙間に世話ものを埋め込む、という無理矢理を案出した」という解釈が展開されていて、素晴らしいと思います。

政治という物語を享受するときに、「我々は逃げまどう群衆(のひとりだ)」という固定したアングルで感情移入するのは退屈です。

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

そして片山杜秀さんは、「ゴジラ」の被爆から、さらにまた別のお話を切り出している。

[追記]

小早川家の秋 [DVD]

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大阪のオケを全部ひとつにしろ、とか、まだ言っている人がいるけれど、楽壇の人間模様というか由来・状況の絡まり合いは、造り酒屋の当主危篤で、名古屋や東京から、「誰やねん」というオッサン、オバチャンが集まってくる小早川家の姻戚関係みたいにゴチャゴチャとややこしそうです。

タイトルロールで、小津映画だと思えないチェンバロが艶やかに鳴ったりして、黛敏郎の音楽は、そんなゴチャゴチャした関西の人間模様の空気を読まずに「我が道を行く」ものになっていて、まるで橋本市長のようですが(笑)、ピーカンの朝の葬儀、という小津のお約束の結末に重厚で感情過多のオーケストラ・スコアを書くのは、ちょっと酷い。

鴈治郎さん(二代目)の飄々とした早着替えが楽しくて、武智鉄二が「赤い陣羽織」の第2場でおやじの着替えを延々と見せる演出にしたのは、役者が座敷で着替える廓もののイメージがあったのかあなあ、と思わされたり、とても面白い映画なのに、小津映画としてイマイチとされるのは、黛敏郎がラストシーンを台無しにしたのが痛かったのではないでしょうか。

東宝系宝塚映画の制作で、「吹田のビール工場」という台詞や十三駅の京都方面列車のアナウンスとかがちりばめてあり、阪大の先生が登場したりして、とっても「阪急沿線」です。

大阪はウィークデイの仕事&アフターファイブで過ごすところで、京都は生活を離れた遊興の世界、という地理感覚も宝塚線の住人っぽいですね。

そして、大阪の街場には、ガチャガチャしたなかに画廊があって、そこには生活のためでなく働いている美人(原節子)がいる。(そういえば、「貸間あり」の淡島千景もミナミのギャラリーに出展する前衛陶芸家(笑)という設定でした。)大阪の旦那衆の道楽としての藝術、その象徴が、街に点在する個人経営の画廊なんですね。

大阪にオーケストラが乱立するのは、アートの殿堂、総合的にして決定版となる壮大な「音の美術館・博物館」とは別に、アートがどこからともなく流れてきて、誰かに買われていくまでのつかの間に展示される「音の画廊」にふらりと立ち寄る文化の記憶が残っているからなのかもしれませんね。

ヘンコな個人画廊の店主たち(=オケのオーナー)がみんな仲良く一緒にやりましょう、とか、そんなの無理(笑)。

貸間あり [DVD]

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