オルガン演奏会を聴きつつ、直球ど真ん中を待つ

日経夕刊大阪版に、3日のいずみホールのヴァインベルガーのオルガン演奏会の評が出たようです。

誰も気付いていないと思いますが、演奏会の6日後に新聞評が出る、というのは、わたくしとしてはこれまで経験したことのない最速でございまして、しかも、オルガンは、正直に申告すると、興味はあるので秘かに勉強はしておりますが聴いたり書いたりする機会が少ないジャンルです。

慣れない分野で早書きして大丈夫だろうか、とヒヤヒヤしていたのですが、新聞社様のご協力もあり、なんとか掲載の運びとなりほっとしています。(キャプションに拾っていただいた「伝道師」という言葉も、実はこれに確定するまでに紆余曲折があって、社内各部署の方々に本当にご迷惑をおかけしてしまいました。たかだか数百字の音楽評にこんな手数をかけていただいたら毎日の業務に支障がでてしまいかねませんから、申し訳ないことでした。)

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演奏会の内容、私の感想につきましては、批評文のとおりでございます。

なんといっても、コラール編曲での音色の多彩な選択が特徴で、多くのかたがそこに注目されたことだろうと思いましたので、あの音選びをどういう風に形容するか、というところに、私なりに知恵を絞ったつもりです。

(わたくしとしては、「音の光が灯る」という言い回しをギリギリになって思いつくことができてちょっと嬉しかったのですが、適切な比喩になっておりますかどうか。)

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それから、「このホールのオルガンにこれほどの表現力があったとは」と驚いてみせるレトリックで批評を締めくくっておりますが、かように陳腐といえば陳腐なレトリックを使う以上、文脈にはいちおう気を遣ってみました。

さっと全体を流して読むと、「多彩な音色を華麗に駆使する演奏を聴き、評者はこのホールのオルガンが多種多様な音色を備えていることに感心している」という印象を受けるかもしれません。そのような受け止め方をしていただく可能性も想定してはおります。

が、具体的に文脈を追っていただきますと、実は、評者が「予期しなかったほどの表現力」と驚いているのは、オルガンの音色ではないんですよね。

そうではなくて、最後の超絶技巧のニ長調の前奏曲とフーガの演奏の話をしたあとにこの締めの文章が出ておりまして、つまりこれは、超絶技巧の作品が、複雑なメカを操作しているという風に感じさせることなく滑らかな音楽になっているのが凄い。それは、奏者の技量というだけでなく、良い楽器で、なおかつ、ちゃんとメンテナンスされているからに違いない。という風に驚いているわけです。

こういう話の運びにすれば、限られた字数で、若干捻ったポイントに評者が面白がっているニュアンスが出るんじゃないか。何に注目するか、という着眼点の段階でひとつ捻りが入っているから、「○○であったとは、と驚いた」という手あかにまみれた紋切り型を使ってもいいだろうと思いました。前の段落で、多少話題がマニアックになっていますから、最後は、さらさら読み進めることができる言葉の並びになっていたほうが、文章の緩急の流れがよくなるだろう、ということもありますし……。

「広場の似顔絵描き」のつもりで、一回の演奏会を限られた字数で論評するのが好きであるマニアックな白石としては、普通そこまで気付かないだろう、という細かいところで、グチグチと陰気にあれこれ考えているのでございます。

(作曲家や演奏家は、音を選ぶときにとんでもなく色々なことを考えている、あるいは、考える間もなく、やってしまえる方々なのだと思いますし、そういう方々のお仕事を文字にするのであれば、その爪の垢のひとかすりくらいは煎じて、才能などないのだから、努力だけを醜く塗り重ねてベストを尽くすしかないのだろうと思うのです。)

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最後に、蛇足ながら、「マスメディアには必ず裏がある」という風に厳しいの目でチェックくださるようなリテラシーの高い読者様向けに言い添えさせていただきますと、

先の小菅優につづきまして、またもや、いずみホールの演奏会を取り上げることになりましたが、当然ながら、ホール様から特段の便宜供与などは一切ございません。ブログで悪口を書いた罪滅ぼしに誉めて、これで許してもらおう、というわけでもございません。

むしろ、最近はホールへ参りますと、広報様が「忌憚のないご意見をお待ちしております」と連呼されまして、自分が蒔いた種とはいえ、とってもアウェイな感じです(笑)。

この時期、これだ、という企画がいずみホールしかないなあ、ということでこうなった、というのがひとつ。

もうひとつは、(またこの話題に戻ってきて恐縮ではありますが)いずみホール様のラインナップが複数あるなかで、これとこれを選んだ、というのは、裏を返せば、あれは選ばなかった、ということでもありまして……。

半ば偶然ですが、音楽ホールというのは、コンサートの主催者というより一種の裏方、良い音楽家に場所を提供することで音楽家をエンパワーするサポートの役回りであるはずで、私たちは、「ホールを聴く」のではなく、ピアニストやオルガニストを聴き、彼ら、彼女らが奏でる音楽を聴きに行くのですから、演奏家と彼らが奏でる音楽・作品が論評の焦点になる公演を取り上げることでよかったでないか、と思っています。

「話題性」でコンサートを選んでしまうと、結局、評論家はそういうところしか見ないのかよ、批評というのは、各種プレスが前宣伝で散々に盛りあげたのを受けて、後追いで辻褄を合わせる尻ぬぐいが仕事なのか、ということになりかねませんし、そんな風にすべてが予定調和に収まったら、コンサートはどんどん「イベント/事件」とは違う何かになりそうな気がするんですよね。

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このシーズンでは取り上げなかった「あれ」につきましては、わたくしの現在の心境としては、打ってもボテボテのゴロになりそうな外角ギリギリだったり、見逃せばボールになる変化球だったり、ベンチの采配として「ここは安全策で、歩かせても次で打ち取れいい」が正しいのかもしれず、現在の野球というのは、そんな風にすべてが管理されているものなのかもしれないけれども(そして、次から次へと金色ではないメダルを獲得することが「一番じゃないとだめなんですか」な事業仕分けの趣旨にもかなった「賢い日本」として称讃されるご時世で、スポーツ全般が、現場の意向とは違うかもしれない大きな力の働きとして賢明になっているのかもしれないけれども)、そんなのは、梶原一騎先生に胸を熱くして、スポーツに興味がない私ですら数々の「物語」を知ってしまっている、あの、素晴らしき日本野球、ではない!!!と思ってしまうわけです。

優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)

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赤鬼ホーナーという人がいて、「地球の裏側に、もうひとつのベースボールがあった」と発言して物議を醸した、などという日米非関税障壁な時代のことを、今の若い人はもう知らない、ですよね……。

こうなったら、全部ファールにして、20球でも30球でも、直球ど真ん中が来るまで待つ。「星くん、なぜ、勝負しない」と心内語をつぶやきながら、1ヵ月でも2ヵ月でも、ひとつの打席で引っ張る昭和のスポ根を、勝手に世間の片隅でやってみよう、と心に決めてしまったのでございます。

東京の現代音楽批評がプロレスっぽい感じになっている昨今(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110508/p1)、関西が誇る現代音楽シリーズを「巨人の星」になぞらえているバカが一人くらいいても、お許しいただけるのではないかと。

本当に来るのかどうかわからないものを、それでもひたすら、来ると信じて待つ。そんな批評があっていいと思うのです。文章力のない非力なローカル評論家には、それくらいしか意地を張るポイントはないのかもしれませんし。

そんなのは、かつて文藝批評が面白かった記憶をかすかに持っているオヤジの郷愁かもしれませんが……。(でも、イヤイヤ仕方なく、という感じに蓮實重彦が朝日新聞の文藝時評を担当していたら、その期間中に大江健三郎がノーベル文学賞を受賞してしまう、とか、火のないところが本当にボウボウと燃えだしてしまったみたいなことが起きたときには、不思議な興奮があったです。数百分の1くらいにスケールダウンした小さな事件でいいから、そういう種類の面白さの現場に巻き込まれたい、と思ってしまうです。凡人のささやかな生きる希望です。)

……無駄口を叩きました。自分の出した批評の楽屋落ちはもう書きません。批評が速攻で出る、というのは、やってみると思った以上にドキドキするものなのだ、と初めての体験ゆえに変なことを口走ったとご容赦いただければ幸いで御座います。