1960年の日本オペラ界は、いったい何があったのか?

連日同じ話題を引きずってしまいましたが、

改めて考えてみると、ああいう文章(→http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23728702.html)を音楽評論家が書くのはどういう時かと考えてみれば、表向きは指揮者の代替わりを論じていますが、同時に、新世代の指揮者を十全に論じることができるのは、「謙譲の美徳」を装う中継ぎ的な職人ライターではなく、この俺だ、と立候補しているのだと思います。たぶん、藝術批評の世界では、「「三歩下がって、師の影を踏まず」は無意味」なのでしょう。

素晴らしい。

言葉の勢いは重要だし、言葉に責任を取るのが物書きというもの。大植英次は日本では大フィルしか振らない人だったので関西で待っていればいいけれど、山田和樹は各地で引っ張りだこですし、スイスにもポストを得た様子。大変だとは思いますが、借金してでも向こう十年のすべての公演を聴く覚悟で、他の追随を許さぬ山田和樹論を上梓していただきたいと思います! 外部資金を上手に調達して、スイスに2、3年住んじゃえば、話が早いと思います! 華やかな未来像です、頑張ってください! といっても、自分から動く「実務家」でないのは自明なので、編集者の皆さまであっちこっちへ引っ張り回してあげてください。それだけの価値のある逸材(のハズ)ですから! イマドキちょっといない「文士」ですよ!!

(そして雅哉さんには応援、ならびに、彼が変なことを書いたときのブログ&twitterでの鋭いツッコミを引き続きお願いします。書き手を鍛えるのは読者の声です!)

……ということで、身軽になったので前から気になっていた別のことを書きます。

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オペラ団体の公演リストなどを眺めていると、戦後、東宝が藤原歌劇団と組んだり、労音の台頭があったりして、さながらオペラ・ブームの様相を呈していたのが、1960年でガクンと勢いが落ちたように見えます。

『日本のオペラ史』で木村重雄は1960年の項目をこんな風に書き出しています。

藤原歌劇団はこの年純粋の本公演はひとつもなく、二期会も京都市響とのモーツァルト2本を別とすれば、7年ぶりに来日したヴファープフェンニヒを迎えての〈ウインザーの陽気な女房たち〉ひとつという状況を呈している。(日本オペラ協会編『日本のオペラ史』1986年、152頁)

どうしてこの年は両団体とも公演が激減したのか、特に解説はありません。昭和音大オペラ研究書編『日本オペラ史1953〜』の関根礼子先生の通史部分にもそれらしい記述はありません。

でも、1960年は大阪の関西歌劇団も本公演ゼロなんですよね。春に大阪国際フェスティバルで山田耕筰「黒船」があり、秋に京都女子学園創立50年祝賀公演(大栗裕「杜子春」と「おに」)があるだけです。

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当時の音楽雑誌を見ると、この頃は大阪労音のミュージカルの話題が目立ちますが、そのことと、オペラ団体の公演減少を結びつける記述は今のところ見つけられずにいます。

何なんでしょう。単なる偶然なのでしょうか、それとも、オペラ団体が戦後ずっと続けてきた興行形態に見直しを迫られる何かがこの年に起きたのでしょうか。それとも、誰もがオペラどころではなくなってしまう何かがあったのでしょうか?

私の貧弱な想像力では、1960年というと安保闘争の年、ということくらいしか思い浮かびませんが、安保とオペラがどう関わるのか、関わりがあったのか、よくわかりません。

他に何があったのでしょう。行政なのか、高度成長政策と関わりのある財政・経済の具合なのか、もっと別の社会風俗なのか……。

関西歌劇団との関連で言うと、1960年は関西交響楽団が大阪フィルハーモニー交響楽団へ改組された年でもあるので、それと関連があるかもしれないし、ないかもしれないし……。

本当にお手上げ状態なので、何かご存じの方がいたら、ヒントを頂けると嬉しいな、と思っております。