ニジンスキーのハルサイと書斎に引き籠もるクラシック幻想

ニジンスキー振付のハルサイは、既に兵庫芸文で何年か前にやってます。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/23894403.html

そして鈴木晶を読んだのであれば、クラシック音楽人が無知なだけで、ダンスのほうではディアギレフのバレエ・リュスがどういうものであったのか、その後にちゃんと継承されている既知の原点であることが推察できるはずなのだけれど……。

世の中にはそんなにたやすく「処女地」など見つかりはしない。外の世界へ出ていくというのは、そういうことだ。

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たとえば佐々木忠次といえば、クラシック音楽では日本舞台振興会でスカラ座やクライバーを招聘した人だけれど、バレエでは黛敏郎を起用してこれを制作してパリへ持っていったりした人。そしてどちらが裏か表かよくわからないところが面白い。

(それに、一度は滅びて廃墟になったものが時を経て蘇る、というのはロマン主義化されたキリスト教の歴史感覚だと思う。20世紀の藝術は、いわゆる複製技術と結び付き、アメリカやソ連のいる広い世界の「大衆」へ伝播するから、そういうエリート主義的な歴史をたどらない。バレエ・リュスは、そんな20世紀の原点だと思う。そして20世紀に本当に才能があり聡明だったのは、「天才」「奇才」のレッテルとは無縁に円満な人生を送ったカルサヴィナやシミオナートのような人たちのほうではないかと、私は秘かに思っています。

和歌や俳句のように丹誠込めて唱歌を作り、オーディオ・リスニングで世界制覇を幻視し、批評を読んで天才に熱狂する19世紀の「中二病」的な遺物は、外へ持ち出すとメンドクサイこと(ファシズムとか)になるから個人の部屋へコンパクトに収納できるサイズへ切りつめて、街場の劇場やコンサートホールでワイワイガヤガヤと別の新しいことを試みたのが20世紀ではなかったかと思うのです。

結果的に、シンフォニー(シンフォニア)という17、18世紀の劇場で生まれ19世紀のコンサートホールで発展したジャンルは、20世紀には、朝比奈隆が諸井三郎を「書斎の作曲家」と言ったように、自室へ引きこもって博識な人物が書く音楽になりました。そういうジャンルだから、佐村河内守にも「書く」ことができたわけです。

そしておそらく、そのように書斎へ引き籠もるタイプの交響曲作家の原点はブルックナーだと思います。佐村河内守の音楽にゲネラルパウゼが頻出するのは、作曲者の身体的・生理的特性の反映に安易に還元して理解されるべきではないと私は思う。人間の思考は、ブルックナーの昔から、膨大な知識を丸抱えして書斎へ孤独に引き籠もっていると痙攣的な亀裂が走ると見た方がいい気がするのです。巨大な持続を体現していると言われるフルトヴェングラーの演奏も、こらえきれずにキレるところでファンを感涙させたりするわけですし、大久保賢さんも、ご自身の思考が突如痙攣したり、論理に亀裂が走るのをご経験されているのではないですか? 閑話休題。)

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映画としてはどうかと思うけれどハルサイの初演風景をそれらしく再現していて、その舞台もニジンスキー版ですね。

ゲルギエフが何でも自分の手柄にしちゃうのも嫌な感じ。バレエ・リュスのハルサイは既に国際商品として流通している演目なのに……(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121008/p1)。なんだか、プーチンが全部ロシアの領土だと主張しているかのようだ。