その言葉で煙に巻かれるのは誰か?

アルテス Vol.03

アルテス Vol.03

  • 作者: 岡田暁生,片山杜秀,おおしまゆたか,吉田純子,鈴木慶一,礒山雅,ト田隆嗣,小野幸恵,オヤマダアツシ,金子智太郎,山崎春美,畑野小百合,川崎弘二,光嶋裕介,波多野睦美,湯浅学,田口史人,大和田俊之,輪島裕介,三輪眞弘,毛利嘉孝,西島千尋,藍川由美,大石始,石田昌隆,濱田芳通,鈴木治行
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2012/10/24
  • メディア: 雑誌
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岡田暁生が皇帝フランツ・ヨーゼフという暴投球を投げて、片山杜秀にあっさり却下されるところからはじまる吉田秀和追悼対談は、吉田秀和が言葉の人であり、しばしば、言葉で読者を煙に巻くよなあ、というところへ着地しておりますが、

一方、以下の美しい宇宙遊泳風のイメージは、書き手自身が自らの言葉によって煙に巻かれている光景である、と私には見えます。

それこそ、次のようなイメージが浮かぶ。つまり――自分の周りを種々の作品が異なる軌道を描いて回っている。周期が短い、つまり、しばしば目に入ってくるものもあれば、一旦は近づきつつも、あとは軌道の関係上ひたすら遠ざかるしかないものもある。また、逆に、これまでどうしても目に入りようのなかったものが、まさに時の巡り合わせでようやく見えてくるものもあれば、それこそ最後まで視野に入らないものもある。そして、私にはそうした諸々の軌道そのものは知りようがなく、たまたま目に飛び込んできたものを受け入れるしかない――というイメージである(考えてみれば、人との出会いや別れもそのようなものだろう)。まあ、そうした「軌道」がわからないからこそ、その時々で意外な体験ができるわけで、さればこそ、人生の中で楽しみもあろうというものだ。

2012年10月27日の記事一覧 - 詳細表示 - Yahoo!ブログ

たとえばこのイメージ自体が、普遍的というより、ロケットが大気圏外へ飛び出して無重力状態で惑星間飛行する昭和後期に特徴的な想像力だと思います。(そして昭和後期の「レコード鑑賞」という文化こそが、このようなイマジネーションを醸造するインフラであったに違いなく、この書き手は「レコード鑑賞」の作法をライヴパフォーマンスへ流用していると診断できるように思います。ここではその方向へこれ以上話を広げるのは止めておきますが、自宅での慎ましくも心温まるオーディオ・リスニングのささやかな悦楽を、サイズも事情も異なる劇場やコンサートホールへ無自覚に持ち込むと、色々不都合なことが起きるという当然のことが常識として広く自覚されるべきだ、というのが私の基本的な考えです。)

さしあたり、現在では、もはや宇宙をそのように均質に「無」が広がる単一の空間として表象すれば済むとは考えられていないはずですが、この書き手の言葉を用いたイマジネーションは、そうした世界観のアップデートを行わず、昭和後期に留まらせてくれる母胎のようなものなのかもしれません。(冒頭で紹介した岡田×片山対談で片山杜秀が言うところの、吉田秀和という皇帝が死んだとしても存続するであろう「クラシック・ファンの帝国」の風景ですね。)

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫)

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宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

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今日はこれから、佐村河内守の交響曲第1番の演奏を聴きにいく。彼の自伝を読んで以来、一度は聴いてみなければ、と思っていたが、ついにその時がきたのである。彼が苦難の中で生み出した作品ではあるが、そのことと作品の中身は別だから、とにかく自分が感じたがままに率直に書きたい。さて、どうなることやら……。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/archive/2012/10/24

このように、宇宙遊泳的世界認識の新しいチャプターは、新しい対象物Xと遭遇するところからはじまります。

しかし、なるほど書き手の「意識」では物語が「遭遇」からはじまるのかもしれませんが、「遭遇」を説き起こす上の引用の言葉の並びは、「遭遇以前」から何事かが既に起きていることを伝えています。

書き手は、「彼の自伝を読んで以来、一度は聴いてみなければ、と思っていた」のです。

そして「遭遇」の物語は、それ以前からはじまっている出来事の連鎖を、「遭遇」そのものと、「遭遇」以前の来歴に峻別することでフレームを確定するわけですが、しかし、このフレームを決めたのは誰なのか?

書き手は、「まあ、そうした「軌道」がわからないからこそ、その時々で意外な体験ができるわけで」と他人事のように書きますが、フレームを決めたのは書き手自身ではないか。私が、書くことの倫理と呼ぶのはそこです。

出来事の連鎖を「遭遇」の物語にあてはめる、という操作を自らの手で行っておきながら、自身がそのような物語の作り手であることを否認もしくは忘却して、作中の登場人物であるかのように振る舞う態度が、倫理にもとるのではないか、というのが私の考えです。

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昨日予告したとおり、今日は佐村河内守の交響曲第1番を聴いた感想を。演奏は大友直人指揮の大阪交響楽団。演奏そのものについては、きちんとしたものであり、それがために作品を味わう妨げになったということはなかったように思う。というわけで、以下はもっぱら、作品についてのみ述べることにしたい。

2012年10月25日の記事一覧 - 詳細表示 - Yahoo!ブログ

という風に、「遭遇」以後の「私」の心に映ったことどもについては、スムーズに言語化されるわけですが、しかし、そもそも、「彼の自伝を読んで以来、一度は聴いてみなければ、と思っていた」のは何故なのか?

「彼が苦難の中で生み出した作品ではあるが、そのことと作品の中身は別だから」という風に、作品の成り立ちと作品の「中身」を当たり前のように峻別する態度は、「遭遇」以前を切り捨てて、「遭遇」そのものだけを詳細に描く態度と響き合っているわけですが、しかし、「彼の自伝を読んで」そこに去来したのであろう事どもは、本当に全部きれいさっぱりシャットアウトできるのか。そしてそれらは、シャットアウトしてしまっていいことなのか?

これが、私のもうひとつの倫理的な疑問です。

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なお、

岡田暁生と片山杜秀の吉田秀和は「他人を煙に巻く」という判定は、煙の向こう側で、実はかなり色々なことを書き手はわかっているはずだ、という書き手への信頼に担保されているのだと思います。(私は、特に戦後しばらくの間の吉田秀和の言葉の編集癖には、自分でもよくわからないところでムャムニャ言って、時を稼いでいるズルさが含まれていたのではないかと思うので、そこまで吉田秀和を尊敬しませんが、それはまた別の話。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110822/p1

一方、私が上で引用した言葉の書き手が「言葉によって煙に巻かれてしまっている」(いわば、自分の仕掛けたワナに自らひっかかってしまっている)と判断したのは、この言葉の書き手を直接知っていて、ちゃんと考えずに直感で言葉を発する場面に何度か遭遇しているからです。

「読む」というのは、書かれた言葉に瞳が「遭遇」するところからはじまる行為ですが、読み手は、書かれた言葉をどのような文脈に据えるか、というところまで書き手に拘束される義務を負わないし、書き手は、書かなかったことについて一切免責される安全で特権的な立場にいるわけではない。

だから、書くことの倫理が発生するのだと私は思います。

無重力空間の宇宙遊泳は、無手順で普遍的に妥当するフィクションではないはずだし、佐村河内守の交響曲第1番は、肯定するにせよ、不満を覚えるにせよ、そして「『全聾の』という前置きのない作曲家として人々に知られる事を望んでいる」(http://www.sym.jp/critic/fukumoto/12/121024.html)のだとしても、

それは、無重力空間の宇宙遊泳のフィクションにおとなしく収まることを欲している、ということではないように私には思われます。

無重力の真空にプカプカ浮かぶのではない何かが周囲にまとわりついていて、おそらくだからこそ、上の引用文の書き手は「一度聴いてみたい」と思ったのでしょう。その部分に口をつぐむのは、何かから逃げているのではないかと私には思われます。