諸々

(1) 本日11/10は、いよいよ高槻の大栗裕マンドリン演奏会です。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121014/p1

私は他の仕事があり、リハーサルだけでも聴かせてもらおうと思っています。

(2) 一昨日8日、日経大阪版にウィーン楽友協会合唱団の「ミサ・ソレムニス」、京都新聞夕刊にラザレフ指揮・京響定期演奏会、それぞれの評が出たようです。

10/27《ミサ・ソレムニス》の公演批評が8日付日経新聞夕刊(大阪)に掲載されました(評:白石知雄氏)。合唱団の絶妙のバランスと確信に満ちた歌詞を「体験したことのない感触」、と。どうぞお手にとってご覧ください。

いずみホール公式ツイッター on Twitter: "10/27《ミサ・ソレムニス》の公演批評が8日付日経新聞夕刊(大阪)に掲載されました(評:白石知雄氏)。合唱団の絶妙のバランスと確信に満ちた歌詞を「体験したことのない感触」、と。どうぞお手にとってご覧ください。"

こういう風に要約されると演奏をひたすら絶賛という感じに見えますが、原文では、全体の印象としては

往年の大指揮者たちとの録音と同じ響きがすることに、感激した人も多いだろう

という感じに、演奏そのものへダイレクトに感慨を抱くという以上に、間に、この団体の名前と記憶が挟まっている感じを私は抱いておりました。

その上で、「体験したことのない感触」の対象ははるかに限定されています。

終曲の「ミゼレーレ(憐れみ給え)」の語に万感がこもる。体験したことのない感触だった。

ということですので、どうぞよろしくお願いします。

(私は、ライブ演奏聴きながら泣いてしまうことが結構ありますが、そういうときでも、

「ここの解釈はどうの、あそこの表現はどうの」などといったことをあれこれ言う気がしなくなる。

薄明の調べ――ラドゥ・ルプーのシューベルト―― ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

ということがなく、どこで泣いたか、因果関係を自覚しているつもりです。とはいえ、わたくしが冷徹な分析・理性の人であろうはずもなく、心の動きが「具体的」なのだと思います。

日本では、音楽を無上の楽しみとして愛する人は、名演奏を聴く側に回ることが多いように思う。意識の高い聴衆が舞台に上がれば、きっと音楽シーンが激変する。合唱のお手本として拝聴するだけでは惜しい演奏会である。

なお、ラザレフ・京響については、10日くらいあとに出る別媒体にも出稿しています。通常は、同じ話を別のところで使い回す「二重売り」を避けるため、ひとつの演奏会については1つしか批評を書かないことにしていますが、今回は例外です。せっかく例外的なことをやるので、どこまで書き分けられるか、に挑戦してみました。新聞の単独評と、その月の演奏会レビューがずらっと並ぶ雑誌評では、視点が変わって、評価が違っていてもいいんじゃないか、ということで(「音楽の友」です)。