不意に、「体育会系に相当することを英語でどう言えばいいのだろう」と気になりまして、検索してみると、
同じようなことを考える人はいるもので、直訳すれば sports oriented people かもしれないけれども、本当に言いたいことはそれでは伝わらないだろうからウンヌンカンヌン、というような質問サイトのやりとりがヒットしました。
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突然妙なことを思いついたきっかけは、ここ数日のいくつかの出来事・見聞から、「音楽家には隠れ体育会系とでも言うべき人が少なくないのではなかろうか、良い意味で」というようなことを思ったからなのですが……、
そこからあれこれ考えを広げてみますと、わたくし自身がいいたいのは、ネット上の質問サイトがこだわっているような特殊日本的“体育会系”(タテ社会とか)というのより、むしろ、そういうのをスコンと突き抜けた感じに「スポーツ・オリエンテッドでいいじゃないか」ということであるようです。
裏返していえば、音楽に関する「文化系なあれこれがウザイ」という感じがあるわけです。
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コンサートというのは、客席に「文化系」な人が集まって、舞台上の「スポーツ・オリエンテッド」な技芸保持者を前にあれこれ夢想に耽るようなところがある。そこのところの変換作用を上手にやることがアートである、ということなのかもしれないのですが、いっそのこと客席が「スポーツ・オリエンテッド」になってもいいのではなかろうか、というようなことを思うわけです。
で、この話は、「聴く型」ファシズムとの闘い(笑)(←意味のわからない人はここ数回の過去ログをどうぞ)においても有効かもしれない。
「聴く型」ファシズムな人は、多くの場合、「スポーツのような演奏」というのを否定的な意味で使うわけですが、そういう語法は、そのように名指された演奏を否定する以上に、否定的なイメージにスポーツを押し込めてしまう悪意が罪なのではないか。
スポーツへのルサンチマンですよね、たぶん。
(だから、そういう体質の人にかぎって、リトミックを信奉してしまったり、ナチスのマスゲームみたいな「政治の崇高化」にあっさり参ってしまったりする。)
あと、そういう人は何故か三島由紀夫の信奉者だったりするわけですが、三島由紀夫は本来的に「文化系」でスポーツ音痴だから晩年にああいうことになったわけですよね。
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一方、音楽家さんは、(とりわけ日本では)突き指したらいけないから球技ダメ、みたいな幼少期・学校時代を過ごした方が少なくないようですが、身体能力がある程度以上ないと音楽は無理ですし、スポーツへのルサンチマンはないみたい。
(私も目が悪いから球技とか無理だっただけのことなので、その感じはなんとなくわかるような気がします。)
カルチュラル・スタディーズが最悪なのは、スポーツ・オリエンテッドじゃないからではないか?
と、たまには思いつきでフワリと球を投げっぱなしで終わってしまおう。
(10時間もかけて内蔵をあれこれ処置した術後の父親の処遇を見ておりますと、現在のとんでもなく高度になっている外科手術は、人体を一旦、各種機器によって生命維持する肉の塊に還元して、いわば、一度死んだ状態にしてからたっぷり時間をかけて処方して、そのあと、徐々に当人の各種機能を再生させていくようです。極めて即物的に「死と再生」なんですね。そこにロマンチックな精神性はない。
家族ぐるみで事前に何度も面談して、ひとつずつ具体的な説明があったうえで「本当にやりますか?」と意思確認されて、この実際に行動を起こすまでの何段階もの手続きは、万一のときに医療裁判を起こされたりしないための「文化的」な作法なのだろうか、などと思っていたわけですが、
どうやらそれだけではなくて、人体を一度、肉の塊に還元して、「文化」の外側へ出ることになるけれども、それに耐えることができますか?
と見極めるプロセスだったようです。
それが難しいようだったら、外科的でない「文化」の内側で人生を全うする選択肢もありますよ、と。
音楽を分析したり、自分の手で創ったりするときにも「文化」の外側へ出る局面がある、と私は思う。ちょっとだけ、担当の先生に「同志」を感じたのでした。
彼が10時間かけて切除した部位の原物を出術を終えた直後に確認する手続きというのもありましたし……。ああ、こういうことか、と。
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術前に、ひととおり説明が終わって、さて、それで本当に手術しますか、と家族で決めないといけない時には、「肉親を戦争へ送りだすのってこういう気持ちかなあ」と思ってしまったのですが……。
そのような選択の余地もなく、「文化」の内側と外側の境界を全部遮断してしまって、視界と意識から「文化」ならざるものが完全に排除されてしまう状態が仮に実現してしまった場合、そのような「文化の外部」に出現するものをアウシュヴィッツと呼ぶ、というのが20世紀の知見だったわけですね。たぶん。
第一次大戦以前へ戻りたい人たちは、自分たちのルサンチマンが生み出すかもしれないものを含めて、もう一度全部やりなおすつもりなのだろうか?)