日本の音楽近代化論における「つくられた説」の奇妙な歪み

[後半の近代以前の日本音楽の話に一箇所追記。]

渡辺裕や輪島裕介が近著で扱っているのは、「唱歌」「労働歌」「演歌」など、近代の産物であることが明らかなのに、昔からあるかのように耳と口になじんでしまっている歌であり、起源が近代以前に遡ると思われている「民謡」や「子守歌」の来歴・伝播を実証・検証する地道な仕事をこの二人はやっていないと思います。

「民謡」「子守歌」などというのも、これも原型はあったとしても、今一般に知られているのは、だいたい大正時代から昭和初年にかけて広まったものである。これについては、渡辺裕や輪島裕介の研究がある。

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

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東大音楽学をちょっと買いかぶり過ぎている。小谷野さんが買いかぶり過ぎている、というより、この二人への世間の評価が不当に高すぎる、ということだと思いますが。

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「民謡」の起源を具体的に実証・検証することは、個別に行われてはいますが、それらを「つくられた説」で一刀両断した人は、日本民謡に関しては、たぶん、いないと思います。

起源がもはやよくわからなくなっている、ということもありますし、迂闊なことを言うと、「正調○○節保存会」のように細々とやっている地域の活動に横槍を入れることになって、やっかいなことに責任を取るのが嫌なのだと思います。

だから、起源を直接問題にするのではなく、「いつ頃から広まったのか」をメディア論としてやるのが主流になっているようです。

「大正時代から昭和初年にかけて」は、ラジオ、レコード、映画が登場したり、各種洋楽合奏がはじまったりして、既存の色々なうたが、新曲とごっちゃになって「広まり」ました。そういうことの研究は色々ありそう。

で、かつて渡辺裕はその種の研究の先鞭をつけるような仕事をやってはいましたが、彼の『歌う国民』や輪島裕介の演歌論は、既に(少なくとも音楽研究者の間では)そういう論調が広まり、一般化してしまっているので、「一歩先を行く」ことを狙っています。

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

「古株と思われているけれど実は新参」を指摘・論証するのは、色々な責任を負わねばならない面倒な仕事なので回避して、「新参であることが明白なのに古株っぽく居座ることに成功している事例」を見つけだして、面白がっているわけです。

かなりマニエリズムに屈折した議論なので、「つくられた説」音楽版の基本図書、と見るのは不適当だと思います。

普通の人なら「つくられた説」で、ああそうか、と一歩でまたぎ越してしまうところを無理矢理に微分して、カメに絶対に追いつくことのできないアキレスのもがき、みたいなパラドキシカルな時空を創出して、ここで一生生きていこうとする東京人の倒錯的な「音楽における路上観察学」。

(しかも輪島本は、「演歌が近代以前からあるわけがない」という公然の事実を読者が思い出して興ざめにならないように、書き出しでかなり無理をしています。)

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121002/p1

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明治以後の歌と、それ以前からの歌は、和音の伴奏のある/なしで簡単に見分けがつきます。明治以前からの歌は、音程も明快に特定できないのが普通です。

今では、音程が不明瞭で無伴奏の「うた」を聴くと、まるで呪文のように異様に感じてしまいますが、明治時代でも唱歌教育の洗礼を受けていない年長者は、ドレミで歌うことができて、ブンチャッチャッチャッの伴奏の付いた歌を聴くと気分が悪くなったりしたと言われています。

([追記]日本の古い歌の現在の伝承の音程がしばしば不分明なのが、どの程度まで最初からそうだったのか、そこに藤田隆則さんが音楽学会最後の偉い先生グループのシンポジウムで言っていた「神々しい摩滅」がどう介在しているのか? これを見極めるのは、音楽作品概念を音楽文化の現状スペックに合わせてこまめにアップデートするコンピュータのソフトハウスみたいな作業と、同じかそれ以上に重要な音楽研究のテーマだと思います。[追記おわり])

またかつては、ヘテロフォニーと言って、歌詞が合っていれば、節回しが違っていてもあまり気にしなかったようです。

ただし、日本の近世には、曲・歌の最初から最後まで「1と2と」という風に規則正しい拍子が一貫している音楽はお囃子とか読経のように大人数相手の特殊な音楽、もしくは、藝のない低級な音楽で、どこが頭か尻尾かちょっと聴いただけではわからないくらい崩すのが高級だ、というスノビズムの美意識があったようで、能楽の近世以後の伝承はそこがものすごく精緻になっているようですし、浄瑠璃や近世邦楽では、歌い語る声の「色合い」にものすごいこだわりがあるように思います。

東大の先生が一般向けにわかりやすく音楽の近代化を解説するのであれば、そういうベーシックなところからやってくれたらいいと思うのですが……。

渡辺裕は、そういう肝心のところをなんとなく誤魔化して、頭の体操みたいなリクツへ走る傾向がある人ですね。

文学研究でも、近代文学だけ読んで作家論を書くとか、特定の国の文学だけしか読まずにいる人とかがいると聞きますが、東大の音楽学で近代以前をちゃんと教えて、研究する人が今いるのでしょうか。

そこをちゃんと押さえずに近代化論をやるのは、かなり足場が脆弱だと思うのですが。

音楽は、「歌は世につれ」などと言う不易流行のうたかたの楽しみでございますし、合州国の属領みたいなこの国で、今は英語のできるグローバル人材を育てるのが国是なのだから、合州国建国以前の事柄は、「有史以前」として無視していいのかもしれないですが。

(渡辺裕は、阪大から東大へ昇進した人、というよりも、弟子の顔ぶれをみると、阪大「ですら」満足に務まらずに東京へ逃げ帰った人、とみるほうが真実に近いのではないか、そのように解釈したほうがより多くの事柄をすっきりと説明できるのだから、と思ったりするのですが……、そんな風にまっとうに推論するのはタブーなのでしょうか?)