「トシは取りたいものです」(広瀬大介『リヒャルト・シュトラウス 自画像としてのオペラ 《無口な女》の成立史と音楽』)

2009年に出たときに評判になっていた本ですが、やっと読みました。この間の学会の20世紀オペラのシンポジウムで、広瀬さんの報告がとてもわかりやすくて、印象に残っていたので。

リヒャルトシュトラウス 「自画像」としてのオペラ《無口な女》の成立史と音楽

リヒャルトシュトラウス 「自画像」としてのオペラ《無口な女》の成立史と音楽

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西洋音楽の作品論をやりたい、という学生さんがたまにいますが、そういう人には、今までは星野宏美先生の本を読んだらいい、と言うことにしていました。

メンデルスゾーンのスコットランド交響曲

メンデルスゾーンのスコットランド交響曲

自分がやろうとしている道の先がどうなっていて、どこで何をやらなければいけないのか、どれくらいの労力と時間が要るのか、など、この本を読んだら見当が付くはずですし、それがわかったときに、「よし、やるぞ」と眼が輝いて、元気になる人はそのまま続ければいいし、怯んでしまったり、アタフタと、どこをどう取り繕ったらいいのだろうか、と逃げ腰になる人は、たぶん向いてないから、他の進路を考えたほうがいい。

(もちろん、ヒトは不幸が待ち受けていることを承知のうえでそれをやらねばならなかったり、進んで不幸へ向かっていく道を選択する権利すらあるのだと思いますし、諸般の事情でそれしか選択肢がない、という場合もあるかもしれませんが、健やかに生きたい人は、シンプルに面白そうだと思えたらやる、思えなかったらやらない、というのでいいんだろうと思うのです。)

でも、作曲家の大物どころで手の付いていないところが少なくなってきましたし、オペラや舞台作品のほうが、新鮮な気持ちで取り組むことのできる余地は大きそうな気がします。

そういうときは、これからは、広瀬さんの本を読め、と言えばよさそうですね。

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同時に、研究が詳細で分厚くなるにはそれなりの理由が要るんだな、ということも思いました。

星野先生のスコットランド交響曲の場合は、作品の成立から完成まで10年かかっていて、それこそ成長小説のように、その間の作曲家の経験の蓄積を読み込まなければ十全な作品論にならない、という判断があるから、あれだけの大きな研究になったし、ならねばならなかったのだと思います。

(そしてこの曲の最初のきっかけであるメンデルスゾーンの若いときのスコットランド訪問は、成長小説のような人生を理想とする当時の教養市民の教育プログラムにのっかった「グランド・ツアー」の一環として、パパのお金で実現したわけですから、そういう人生を生きた作曲家に取り組む構えとして、当時のウォルター・スコットの流行などから説き起こす本格小説みたいに分厚い本が出来上がるのは、とても正しい。

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

グランドツアー――18世紀イタリアへの旅 (岩波新書)

ベルリオーズやリヒャルト・シュトラウスのようにわかりやすい形での「自画像」ではないけれど、作曲者の人生が、何度も推敲を重ねた交響曲へ折りたたまれるようにして入っているんですね。)

一方、「無口な女」の場合は、付録のディスコグラフィや上演記録を見ると改めてびっくりしますが、映像として観ることも難しいし、日本では3回しかやっていないし(1回はかつての大野さんのオペラ・コンチェルタンテの演奏会形式)。

だから、これは、ほとんどの読者が観たことがないであろう作品の詳細を文字で伝える書物になるんですね。

手間を惜しまず、順番に必要なことを説明するのは、「いい人」なんじゃなくて、そうしなければならない理由があるんだな、と思いました。

シュトラウスの後期作品を軽視する傾向は比較的早くから生まれていた。こうした傾向は特に、扇情的な書き方でおもしろさをかき立てようとする伝記作家に顕著であり、1970年に至ってもハロルド・ショーンバーグは[…以下略…](20頁)

「扇情的な書き方でおもしろさをかき立て」ることのできないようなツマラナイ人間は生きる価値なし、の精神でキャリアを築いた岡田暁生を見て育った白石としては、染みる言葉でありました。

「サロメ」のパリ公演後のロマン・ロランのシュトラウスへの助言(32頁)とか、岡田暁生は知らないはずがないのに、読んでも耳に入らなかったのだろうか、と、シュトラウスのことより、岡田暁生の心の闇を覗いてしまったような気になり、動揺してしまいましたし、

ツヴァイクの台本作家の立場からの率直な進言とか、イケイケでホフマンスタールと派手にやっていた頃とは、随分、様子が違ったみたいですね。

音楽論も、これからは、じっくり年齢を重ねる成熟社会でいきたいものです。

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話は少し変わりますが、

「若者こそが時代の文化を創るのだ」というスローガンを取り下げることは、決して若い人たちにとって悪い話ではなく、単に、長らく「若者」を食い物にするビジネスモデルでやってきたオッサン、オバハンが困るだけのことだと思うんですよね。

恋愛至上主義問題とか、

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

日本恋愛思想史 - 記紀万葉から現代まで (中公新書)

アマチュアとは何か問題とか、

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-nog20121125.html

そういうのも、「若者が文化を創る」神話を取っ払ってしまうと、随分、論点がすっきり見えやすくなるんじゃないだろうか?

「永遠のヤング」でありたい地方自治体男性首長さんたち(実年齢は様々)が久々に日本に誕生したのかもしれない極右政党(ヨーロッパではどの国でも90年代からありますよね)で打ってでることになり、色々なことを勿体ないと考えるオバチャンの思想(強面のオッチャンと平気で話ができるところがオバチャンのオバチャンたる所以なのは言うまでもない)と対決する構図になっているらしい年の瀬に、そんなことを思うのです。