「プロならできて当たり前」という言葉の数奇な運命

プロが自分の仕事について「プロならできて当たり前」と思うのはハードボイルドに素敵だが、お客様は神様である消費者マインドにどっぷり浸って甘やかされた元ブラバン少年がこの言葉を使うのは醜い。

「プロならできて当たり前」という言葉が、流れ流れて元ブラバン少年である中年の脳内に刷り込まれるに至った、大なり小なりささくれ立っているであろう流浪の歴史に思いを馳せると、心が痛むところではある。

ボディガードの睾丸を躊躇なく蹴り上げたら終わり、なわけではない。

それは、「村上春樹の読者だったら理解していて当たり前」。

私は彼の小説を面白いとは思わないが、その程度の教訓を流布させる効用はあるんだろうと思う。

ただし、維新がどうしたこうした、というパーティに入信して、頭がオカしくなってる人に対して、この常識は通用しない。読者としての修行が足りなかったのか、さもなければ、修行のやり過ぎで何かが擦り切れたのであろう。

2012年の年の瀬にふさわしい光景である。むしろ感動的に美しい、と言うべきなのかもしれない。

元ブラバン少年の不器用な指先は、首筋の一点(←月がひとつしかない「この世界」にはそんな作り事めいたものは存在しません)を探り当てることなく迷走を続けるのであろう。あたりかまわずアイスピックを突き刺す行為を推奨する結果になったのだとしたら、村上春樹は罪な人、なのかもしれない。

月がひとつしかない「この世界」には、相手の気配を瞬時に察して身をかわすスーパーマンはいないので、睾丸を蹴り上げるのはラクチンポンだしね!

その程度のことでプロのチンポが勃たなくなるわけではないだろうから、別にどうでもいいわけだが。

(……というような、こっぱずかしい感想文でも書かないと、村上春樹を読みたくもないのに読んでしまった元は取れない、か(笑)。)

来年度の大阪フィルは難しい曲を次々やるみたいだから、大きなオコチャマを収容する託児所がいるかもしれませんねえ。面白くなって来ました。