で、結局どうなの?

【お知らせ】(18:00追加)
この文章における今井晋は虚構のキャラクターであり、実在の今井晋(とは誰か)とは無関係です。

[後半に加筆]

だいたい、表で喧嘩せんと陰口流したり裏で立ち回ったり情報通を気取るのが「かっこいい自分」とか信じ込んでる人は順調に友達なくしていくんよ

増田聡 on Twitter: "だいたい、表で喧嘩せんと陰口流したり裏で立ち回ったり情報通を気取るのが「かっこいい自分」とか信じ込んでる人は順調に友達なくしていくんよ"

という増田理論でいくと、

http://twitter.com/shinimai/status/255583308283539457

↑唐突にこういうリンクを貼ったことに対する私の質問には、いまだに何の回答も得られていないのだから、

2012年10月9日日本時間午後7時頃、というタイミングで、改めてこの記事へのリンクをtwitterに貼るのはどういう意図があるのでしょうか?

東京大学今井晋くんに質問! - 仕事の日記(はてな)

私としては、一方的に絡んできた今井晋くんを今もこれからも理解・信用しようにも、その手だてが失われたままである、ということでいいわけですね?

(別にすぐにどうこうというつもりはないが、「やった側」が忘れても「やられた側」は覚えている、という非対称性は、人間関係の常識ですし。)

他人の注目を一刻も早く浴びたい、という今井くんの欲求が華々しく満たされたのであろうことは十分に理解できますし、これから彼は憑き物が落ちたように人間が丸くなる、という心温まる物語を増田くんが思い描いていること、そして「子分」が増えて喜んでいることは理解しますが(笑)。

でも、それらしいムード作り、イメージ作りを優先して他人の実存を弄ぶ手品には、今このときの至福感とともに、決して長くはない有効期限というものがあり、有効期限が切れた先には、決して時効が訪れることのない清算手続きが待っている、というのが歴史の教訓だと思います。

そうしてそこに残るのは、作者もしくは製作者もしくはその意図すら剥がれ落ちているかもしれない「work(仕事=作品)」もしくはその痕跡のみ。

作品概念を時間上に展開するとそういうことになり、だから、作品とは墓である、という格言があるのだし、今井くんのdisを乗り越えて先日お話させていただいた「ただ白骨のみぞ残れり」とはそういうことなのであろうと思います。

http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-nog20121125.html

作品の基層にある「もの」をどう扱うか、というところへ議論が届くかどうか、ということと、学会であれ何であれ、今このときに華々しく輝く知的営為を支えて作品化されることもないであろう「作業」の領域(そこでは「作品」は残らないかもしれないけれども「もの」が残る)をどうするつもりなのか、ということが私は知りたいし、どちらの疑問についても、そこは見ないで楽しくやりつづけたい雰囲気が感じられるところが学者諸氏への私の不満です。

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話は若干変わります。

現状では、酒呑んで学会でワイワイやることで「もの/白骨」化を先送りしたい欲動に最も良く応じてくれる場がポピュラー音楽学会である、ということになっているのだと思いますが、順当に「もの/白骨」化するしかないものはそうするしかないし、時ならぬ「若返り」が虚妄なのか、どうなのか、ということを一度考えるときではないか。

私は、「もの/白骨」化するしかないものはそうするしかない、という構えでポピュラー音楽を考えること、つまり、大衆と、中間層のユース・カルチャーとを作業仮説として分けることは当然可能だし、結構火急に必要なことだと思っています。存在と実践の区別は、そうしたことも射程に入れるべきではないか。

つまり、日常性をシミュレーションすることで概念分析を精密に鍛えるというピューリタニズムの果てに案出された新種の不死の体系(そこにはスコラ哲学と生成文法風の普遍言語への夢が導入されているらしく、暗黙にどのような世界を希求しているか、というのは当人達が思う以上に傍目に明らか、天国への階段を昇っています、本郷の高台に天国への入口、バベルの塔を再建するのです、神を讃えよ、ハレルヤ!)で存在を捕捉することと、老化の兆しを予感しながらつかの間であれ生を横溢させたい日常性の実践哲学への期待は、分けつつ両立していいのではないかと思うし、「イマドキの若い者」がこぞって不死の体系に籠城し、年寄りになるほど生の横溢する実践哲学へ打ってでる傾向が強い、という捻れが、2012年のニッポン高齢化社会の面白いところなのではないだろうか。

それはつまり、金も地位もない未熟者は手堅く小さい勝負をすることしかできないし、金と地位を得るにつれて大きく大胆に遊べるようになるのだから、「お前達も今は我慢のときだぞ」と言っているに等しいわけで、実はありふれた年功序列社会の光景でしかないわけですが、

そうやって昨日まで元気の良かった爺さん婆さんが、ある日突然、骨になるわけです。

そのときに、弔いの作法を誰が覚えているのか、という案件が「作品論」には含まれるのではないか、というのが私の考えです。

植草甚一の勉強

植草甚一の勉強

実年齢と関係なくヒップなじいさん、というのもいたわけだし。

(なお、私が今井晋くんにからんだのではなく、今井晋くんが唐突に私に絡んできた、という順序ですので、野次馬のあなた、経緯を知らずに勘違いしないように。)

以上

[追記]

誰か白石さんに「今井くんはブクマしたら自動的にTwitterにリンク貼られる仕組みを使ってるだけなので、べつに晒しあげの意図とか無いと思いますよ」って伝えてあげてー

http://twitter.com/conchucame/status/278687426086584320

リンクを貼るしくみの説明はわかりました(御親切にありがとうございます)。そのうえで、私の最初の質問は、「どうしてまた3年前の記事を今になってピックアップしたのだろう、この人は?」ということです。

音楽史における第一次世界大戦の位置づけに興味があったのか、あるいは、音楽学会に興味があったのか……。

気になるじゃないですか。こっちも今年は音楽学会に呼ばれてしまって、そろそろちゃんと準備するか、というタイミングだったのですから。

発端はそれだけのことです。その後は、リアクションもないので、それをきっかけにして日頃気になっていることをその都度書いているだけです。そこはそれこそ、そちら様には関わり合いのないことであろうかと思います。

ご本人はお気に召さないようですから、それならば、

この文章における今井晋は虚構のキャラクターであり、実在の今井晋(とは誰か)とは無関係です。

ということにしましょう。

これまで同様、今後も実在のあなた方とわたくしとは、何の縁もゆかりもないということで。