一音入魂の耳、メロディーの流れをつかむ耳

[追記あり:ホルンの「ポコポコ」の件]

話し言葉を、一度聴いたらかなり長い文章でもすぐに書き留めることのできる人がいる。

でも、会議なんかでよくある光景だけれど、「え?」と何度も聞き返して、短いフレーズに区切って、何度か言い直さないと書き留めることのできない人もいる。

同じことが音楽にもあるんじゃないだろうか?

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メロディーの流れや、大きなシークエンスの段取りを、こうはじまって、こうなってああなった、そうしてここへたどりつきました、という風に聴きながら掴むことができる耳と、今その場にある短いフレーズ、もしくは、音をひとつずつキャッチして、また、次をキャッチして、また、次を……という風に聴く耳では、同じコンサートで同じ曲を聴いても、随分と受け止め方が違うはず。

演奏するほうも同様で、音楽を大きな区切りで一息でつかむこともあれば、小さく区切っていくこともある。そして、聴くことに慣れた人だったら、「さて、今度はどう来るか」と柔軟に対応できるように構えておいて、さっと演奏のペースをつかんで、丁度良い間合いでついていくわけだけれども(そしてそれが色々な演奏を聴く楽しみであるわけだけれども)、

場合によると、何をどうやりたいのか、間合いをつかみかねることがないわけではないし(さすがに私は場数を踏んできたので、仕事で行くコンサートでそういう風に立ちすくむことはないけれど)、人によったら、ある種のパターンの演奏にしか対応できなかったり、どのような演奏であっても、自分のペースでしか、音をキャッチすることができなかったりすることもありそう。

クラシック音楽はオッケーだけれど、邦楽はどこをどういうペースで聴いたらいいのか、さっぱりわからない、ということもあるかもしれない。(わかってみれば、面白いのに。)

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こういうことは、特段、音楽好きだけが習熟している技能だ、というわけではなく、

たとえば、仕事で音楽担当が回ってきた、という新聞記者さんでも、上手に聴いて楽しんでいる人と、どうやらそうではなさそうな人に分かれるので、音楽に詳しい/詳しくない、というのとは別の基準で考えたほうがいいことであるように思う。

(取材で人の話をメモするのが仕事だから、新聞記者さんは、概して、相手のペースをつかんで聴く、ということを音楽でも自然にできることが多そうではあるけれど。)

また、意識的に「聴き方」を切り替えることができないわけじゃなくて、

例えば、オーディオ機器や会場の音響をチェックしようと思うときは、敢えて、一音一音を区切って、それぞれの響き具合を確かめるような聴き方をすることになる。

(一方、元調律師さんで、ピアノの弦の響きを止めてしまうような暴力的な激烈なタッチの音を聞き続けていると、生理的にカラダが受けつけなくなり、気分が悪くなる、という人もいる。一種の職業病だと思う。ピアノの音が、意志と関わりなく「聞こえてしまう」病気。)

そしてピアノの伴奏が上手い人というのは、我々のように単に聴いて、耳のペースを調整するだけでなく、聴きながら弾くわけですから、大変な特殊技能ということになると思います。

(本当は指揮者の場合もそうで、聞こえている音にカラダが同調できないバトンは、客席からは気付かれなくても、共演する歌手や演奏者にはバレバレだったりするようです。

よく見ていると、ちゃんと音が聞こえている指揮者と、そうじゃない指揮者は、客席からでもだいたいわかる。

とりわけ、コンチェルトやオペラは、全部を指揮者主導でやるとおかしなことになるジャンルなので、指揮者の「耳」の差が歴然とあらわれます。この2つのジャンルがほぼ同じ時期に都市国家の集合体である同じイタリアで誕生したのは偶然ではないかもしれない。コンチェルトはオペラ・アリアの器楽版である、というような様式の具体的な貸借関係だけの話ではなく、こういうタイプの集団編成法がこの時期のイタリアで好まれる理由が何かあったのではないか、と……。)

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何が言いたいか、というと、2つありまして、

ひとつは、

例えば、ボロディンの交響曲第2番の第2楽章の冒頭のホルンの「ポコポコ ポコポコ……」というリズムの刻みは、文脈のなかで聴いていたら、何かがはじまる前の前奏なのが明らかだし、あんまし上手じゃないなあ、と思っても、(そして意外に長く続くので目立つことは確かだけれども)しばらくするとメロディーが出てきて、しかも、割合大きくフレーズをつかんで音楽が進んでいくので、そのうち、今日のこの演奏はこんなものか、という情報の one of them に回収しながら聴くことができるようになる。

(別に、そこ「だけ」が突出してダメだった、と力説するほどではないと思うし。)

でも、一音一音にしがみつくように聴いていたら、あるいは、特定の楽器に何らかのこだわり(プラスのこだわりであれ、あいつらはいっつもダメだ、みたいなマイナスのこだわりであれ)があると、そこで突出して耳が引っかかって、もう、ダメになっちゃうかもしれない。

(先に言及した、暴力的なタッチで頭が痛くなる元調律師さんみたいなもので……。それは、半分は奏者のせいだけど、半分はあなたの擦り込みなので、しょうがないですよ。言葉の使い方が合っているか自信はないですが、たぶん、こういうのを、間主観性というんじゃないのかなあ、と思う。どちらか一方に原因や責任を押しつけることのできない関係性というのが、世の中にはある。相性。

で、ホルンの「ポコポコ」を許せない元ブラバン少年の耳に、最初のユニゾンのテーマの声高に呪文を唱えるようなユニークなイントネーションは、ちゃんと届いたのだろうか?)

[追記:念のため言っておきますが、私が大フィルを聴いたのは2日目です。そしてホルンは、2日目もちゃんと(?)もたついてましたし、だから大フィルのホルンが上手いとか、大フィルをかばってこういうことを書いている、という意味ではありません。まあ、あれくらいしょうがないんじゃないの、やりにくそうなテンポだし、ということです。]

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そしてもうひとつは、先日のザ・フェニックスホールでのイーノック・アーデン。

小坂圭太さんのピアノが、前半のリートでは声とのバランスが完璧だったのに、後半のイーノック・アーデンでは、終始、朗読の声にかぶさる、ちょっと聞きづらいバランスでした。

小坂さんは、室内楽なども大変素晴らしくて、少なくとも楽器の音(楽音ですね)は隅々まで気を配った上で弾くことのできる人なのは間違いないと思います。

でも、ひょっとすると彼の耳には、朗読の声が、それに自分のピアノ演奏を寄り添わせるべき「音」として聞こえていなかったのかもしれない。

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朗読や話し声に音楽を「付ける」というのは、劇音楽の基本中の基本で、とりわけ、日本の藝能は歌であれ語りであれ、「声」がパフォーマンスの最重要の幹のような役割を与えられています。

大栗裕はマンドリンオーケストラのための音楽物語を得意としていましたが、彼は、間違いなく声に音を「付ける」楽しみを知っていたし、相手のいうことを聴いてそれに合わせるのが得意な人だったんだろうと思います。

彼の音楽物語を実演で聴くと、ああ、こういうやり方があったか、と、声・語りに音を「付ける」手法の豊かさに改めて目を開かれる思いがします。音楽としての独創性とか完成度というより、音楽を言葉に「付ける」インターフェースとでも言うべき領域が充実していて、だから、面白いんですよね。

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ちょっとした必要があり、ミルシュタインの弾くバッハ(無伴奏ソナタ3番の終楽章)を聴いていたのですが、

ヴァイオリン弾きがこの人の演奏を最高のお手本、と言ったりするらしいので、どういう弾き方をするのだろうかと思ったのですが、

こういうスピード感、アクセントの度合いでフレーズを作るのが20世紀のヴァイオリンのテクニックとしては「名人」であり、聴衆の「耳」に対しても、心地よく変化と統一感のある楽しみを与えていたのは、確かにそうだろうなあ、と変な納得の仕方をしてしまいました。

立派なものではあるけれども、古楽の耳で聴いたら全然別世界だし、わたくしには、異文化研究のサンプルとして、歴史的・文化的な距離感を伴って受け止めるべき対象に思えてしまったのです。

先日、大フィル定期で、ヴァラディのこれとは全然違って、普通、この曲(チャイコフスキーの協奏曲)をそういう風には弾かないだろう、というやり方を最後まで通して、でも、その独特ぶりが非常に面白かった記憶との対比もあるかもしれません。あれはあれで、奇妙なものではあったけれども、ヴァイオリンで多彩なフレーズを作る「語り藝」としては実に興味深かったですから。

で、こういう風に「聴き方」を切り替えながら音楽を聴くことを、ヒトは自然にやってしまっていると思うのだけれど、これはいったいどういうことだろう、と考え始めて、

そこで、この文章の冒頭の思いつきに至ったのでございます。

おそまつ。

みなさん、「耳」は、ガチガチの型にハメるのではなく、柔軟にメンテナンスしておきましょう。

音楽は、「私」がやるものであったり、「私」が裁判官として裁いたり、「私」の心をのぞくような孤独な魂の試練ではなく、関係性の藝術。とりわけ、メロディーの軌跡を耳が追う快感というのは、そうだと思います。愛撫に近いインターフェースの悦びなのではなかろうか。

(一方リズムにノル、というのは、間主観的というより、共同体的になっちゃいますね。

とはいえ、強弱アクセントでビートを等級付けするリズム理解というのは19世紀以後に西欧から全世界へ広まった随分と新しいもので、だから、オン・ビートとアフター・ビートの区別なんていうのも(共同体に同化する/しない、というマイクロポリティクスの隠喩になりそうな着眼点ではあるけれども)、それを語りうる領域は実はそれほど広くない。

日本流の「ノル/ノラズ」の切り替えはまた別の世界へ開かれているし、

ポリリズムというのもあるし、

ヨーロッパに限定したとしても、強弱アクセントではなく長短アクセントでリズムを捉える系譜はどうなるんだ、という大問題が控えています。

音を長く引くメリスマの技法は、長く伸ばすことが強調の所作である、という文化のなかで花開いたのではないかという気がしますから、それは、メロディーの快感であると同時に、リズム論の観点からみたメリスマ、という、現代の常識だと奇怪に思えるかも知れないテーマを、一度考えたほうがいいのかもしれません。

コンチェルトのカデンツァとか、あれを何と呼ぶのか知らないのですがジャズやロックでドラムが暴走しちゃうパフォーマンスとか、ブルースのエンディングで興がノルと1分くらいひとつのコードの上で遊んじゃうインプロヴィヴィゼーションとか、近代以後の音楽でも、均等にパルスが続くのではない領域が開かれる局面があるわけですから。

ホルンの「ポコポコ……」を一点集中で責め苛むのもいいけれど、音楽はもっと広い、という思いが私にはある。)