ひとこと×3

(1) 選挙は、自分の選択が間違っていなかった!オレって目が効く、と終わってからナルシシズムに浸るためのイベントではない。事前に思っていたことと、実際がどうだったか、本当にそれでよかったか、誰にとってもどこにも答えはない。(そういう制度ですから。)そして答えがない状態を、無理矢理「オレは正しい!」という思いこみで埋めてはいけない。話はこれからだ。

(2) サラリーマンさんの仕事は、あっちとこっちを上手に繋ぐことなのだろうと思う。そして肝心の「あっち」や「こっち」が枯れて、サラリーマンさんだけが残ると、それは「無」だ。どうやら、20世紀の日本のファシズムは農業(←農林漁業は天然自然の営みではなく高度な産業、原発事故で存続不可能になった「DASH!村」を見ていればわかるように技術の集積です)による立国(米が石高という名目上の納税単位ではなく実際に「国民の主食」だった期間は歴史上相当に短いはず、網野善彦が一生懸命書いていたように)からサラリーマンさんを都心に集めて工業国へ移行する際のアレルギー反応のようなものだったみたいだけれど、

国の死に方 (新潮新書)

国の死に方 (新潮新書)

戦後ラーメンを作るよりずっと以前に安藤百福がやっていたような植民地と内地の交易が、当時どういう意味をもっていたのかということも、片山さんの今度の本には書いてある。
ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20121002/p1

今は工業国から次へ移行する必要があって、そこで悲喜こもごもになりそうだから、それでサラリーマンさんの間にファシズムっぽい雰囲気があるのかもしれませんね。

今はマスコミから何から、サラリーマンさんに手厚く、皆様を同時に消費者という名のお客様としておもてなししているけれど、この状態がいつか終わるかもしれないし、そのときに、農業従事者のその後の処遇のようなことでいいのかどうか、というのが、これから考えることなのではないか。

このところずっと「戦後サラリーマン社会を生きた作曲家・大栗裕」(なにせ「キタハマ、キタハマ」と連呼した人ですから)とその時代を調べている私はそう思います。

(3) 以上の思いつきを前置きにして、本当に書きたいのは「楽譜は絵だ」という話なのですが、今は時間がないので、またあとで。

(今週は、月〜水の三日続けて、正確に9時から5時の「出勤」を経験して、満員の通勤電車のどこに立ったら快適なのか、とか、この歳で初めて知ったり、選挙の翌朝、「朝立ち」(変な意味ではない)っていうのでしょうか、当選した維新の人が茨木の駅を猛然と流れる人の列の脇に立って何か言っていて、そのクリーン感を前面に打ち出そうとする胡散臭さが、少し前のソフトバンク(赤や白のユニフォームでブロードバンドルータをばらまいていた頃)の駅前集団そっくりに見えて面白かったのですが、その話も、またいつか。)