さらに承前:デフレ・ロスジェネ人文学者に告ぐ、「宗教的」を「ロマン主義的」と言い換える隠蔽工作を即刻停止せよ(そしていますぐとりあえず島田裕巳に謝って(笑)!)

[2/19付記:いちおう解説しておくと、タイトルは「ロマン主義」という言葉を今後使うな、と自粛要請しているのではなくて、積年の経過を踏まえ、当方はこの言葉を既にロックオン(先日日本軍が隣国からやられた、とプレスリリースしたやつですね)したのでヨロシク、という儀礼的言質ですので、念のため。日本という国はかつてはそういう儀式が嫌いで、松岡外相が傲然と連盟脱退(メディアは拍手喝采!)とか、そういうのもあったらしいので、それを縮小コピーするもよし、対応はご自由に。(最近の歴史学によると、日本が公式な外交ルートを隣国等と構築したのはヒミコ以後の数世紀と、あとは黒船以後の150年だけで、ほかは全部非公式だったり単なる民間外交だったりと認定せざるを得ないらしい。この島はそういう辺境なので、あらゆることが起こりうる。twitterは似合いかもしらん。]

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

朝からファックスを7件送信。今年に入って、聴き逃したくないと思う公演が増えている。3.11前のヌルい企画が一掃されて、各主催者が水面下でコツコツ準備していたコンサートが形になりつつあるのだと思う。

twitterという木の上の巣でピヨピヨと鳴きながら、黄色いくちばしを開いて親鳥が餌を持ってくるのを待っている人達が「世界を変える」わけではない、ということだ。(日本は(辺境ではあっても)良くも悪くも、目新しいガジェットであっさり革命が起きるような発展途上国(←差別発言注意)ではない。)

そしてまた、「批評」(前のエントリーで素描したような意味における)が死んだり、再生したりするのも、「最近面白いイベントないねえ」とか、「だんだん面白くなってきたねえ」とか、世間の浮き草、道楽者の駄弁をもっともらしく言い換えているに過ぎないのだと思う。

くだらない。

ところで、そんなデフレ時代にロスジェネなどと呼ばれていた世代の人文学者は、しばしば「ロマン主義的」という言葉を、歴史的文脈を離れた汎用のタームであるかのように多用していた。

(たとえば、増田聡くんは、まだ論文書き(という名のシュウカツ)にいそしんでいた頃、この形容詞を多用してウザかった。)

そして最近、その盟友の吉田寛くんが同じ言葉を使っているのを久しぶりに見て気がついた。

たぶんこれらは、フランス革命前後あたりの悩める若手アーチストが「古典的」と対にして使っていたような語源的な文脈等々と関係なく、「宗教的」と言い換え可能な用法だと思う。

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彼らが「このように書けば人文学者っぽいと世間から思ってもらえそうだ」と自認する文体(ファッション)を身につけたのは1990年代で、ちょうどオウム・ショックで、「宗教は恐い」というモードだったし、そこへ打ってでる根性などないので、この単語をタブー視して、すべて「ロマン主義」と言い換えたのだと思われます。

(語らないことによってそのような問題が存在しないかのように見せかける、という、学者が最もやってはいけないことをやったわけですな。)

宗教はなぜ必要なのか (知のトレッキング叢書)

宗教はなぜ必要なのか (知のトレッキング叢書)

「宗教」をタブー視して、「ロマン主義」に言い換えて逃げた根性なしのキミ、いますぐとりあえず島田裕巳に謝って(笑)!

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時代思潮としての19世紀ロマン主義というのも、18世紀の啓蒙・光と対話の思想のあとで、五感の総合とか、宵闇の夢想・形而上学へ傾いて、中世・カトリックを呼び戻そうとするところがあったわけですから、「宗教的」と「ロマン主義的」の間には何らかの関連、比喩的関係があるとは思いますけどね。

しかも、「ロマン主義」などと言うと、なんだかファンシーでカワイイですから、あの白装束の集団と正反対に、安心安全な「モテ系」感がただよいます。

(そうしてこのような「言葉の暴力」を浴びたせいで、リアルに「音楽とロマン主義」を研究テーマに選んでいた人間は、とんだ貧乏くじになっちゃったわけですわ。ロマン主義(←「宗教的」互換で片付く意味ではない)の怨念はしつこいよ(笑)。)

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「音楽の国ドイツ」論が、そのあたりの懺悔・告解として十全に書き尽くされていることを期待したいところだが、いまだにうっかり「ロマン主義的」という抑圧的な隠蔽語を使っているとなると、ちょっと心配だ。

[追記]

ある種の「信」にとらわれると人間は足が止まる。

それでは都合が悪いということで、「それはロマン主義だ」と足切りして速度を稼ぎ、シャコタン改造車で滑走するのが過去20年のトレンドだったわけです。デフレ下流社会が学問の暴走族を構造的に生み出した。(そして「総長」のいる名門大学がこうした「族」のアタマになるのがナラワシである、というわけだ。)

まあしかし、爆走する車をドライヴしつづけるのも楽ではなくて、壁に激突して早世したり、「体力の限界」を感じて、早々と引退して、家族とのんびり暮らすようになったりすることも少なくない。

そうして、奇跡的に走り続けているドライヴァーを集めて、一斉に走らせてみよう、としているらしいわけですが、

「いい歳して、まだスーパーカーが楽しいのかねえ」

とつぶやくのが「批評」であろうかと思われます。

「それはメタ言語というもので……」

と、つぶやきを切り捨てて、あくまで走り続けることを選ぶかもしれないけれど、ヒトの足が止まる機構としての「信」の問題は、棚上げされただけで消失はしていないし、

滑走するドライヴァーに見える世界を記述しつづける「地動説」より、足を止めてドライヴァーが同じ所をグルグル回っているのを眺める「天動説」のほうが、世界をシンプルに記述できてしまうかもしれません。

それはなるほど「錯誤」かもしれないけれど、たしかに機能しているわけです。

(で、このように言ったからといって、「いい歳をしてスーパーカーをかっ飛ばす人々」を阻止しようとしているわけではないし、そのように酔狂な人々のイベントを文化庁が主催することを税金の無駄だから止めろと言っているわけでもない。

酔狂な人々に金を出し、万に一つの可能性で「瓢箪から駒」が出るかもしれない宝くじに税金を投入するくらいの余裕はあっていい、と、そのように考える人が一定数いると想定すればいいだけのこと。

ただし、この「宝くじ」がいまだに「批評の死と再生」といった話を繰り返す類のものだとしたら、当たりの確率があまりにも低そうで憂鬱だなあ、とは思うわけで、それが、ここでの一連のわたくしの意見の発端です。)