間違った設問が放置されたからといって、文句を言うのは筋違い

[本文とは無関係な追記]

本日日経夕刊に批評が出た模様。

西村朗が生地大阪で本格的に仕事をするようになって十年。

「現役最強」と形容したココロのみ補足します。

OS-085 西村朗 太陽の臍 オーケストラと箒篥のための音楽 (現代管弦楽シリーズ)

OS-085 西村朗 太陽の臍 オーケストラと箒篥のための音楽 (現代管弦楽シリーズ)

私は、昭和から平成への転換期に「光の君」をも恐れぬ男であることを天下に宣言した西村朗が、晴れの舞台で心底震撼する「恐い人」を前にして恐縮する姿を死ぬまでに一度この目で見たい。「西村朗が心底震撼する「恐い人」」急募。年齢・経歴不問。室内交響曲「死者の声」の作者ですから、あなたが考える最も恐い死者を蘇らせるのも可とします(不可能なのが辛いところですが……)。ともあれ私は、大阪が藝に厳しい街になって、そこで奮闘する「最強の作曲家」の姿が見たい。還暦ははじまりに過ぎません。大阪の「対西村シフト」は今はじまったばかりなのです。

[追記おわり]

英文学者だが、橋本治とか小森陽一とかは全然読んでいないで食ってかかるのだから困ったもので、しばしば英文学者などには、日本文学なら研究を読まずにものを言っていいと思っている人がいる。

大岡昇平の自伝 - 猫を償うに猫をもってせよ

しばしば西洋音楽信奉者などにも、日本のことなら研究を読まずにものを言っていいと思っている人がいる。そしてそういう人は、ある種の英文学者と話が合うらしい。

日本語の環境の中にどっぷり浸っている者が奏でる西洋音楽は、まず間違いなく、向こうの人たちには、良くも悪くも何か「違った」ところを含まずにはおかないだろうからだ(事実、それに関するエピソードをいろいろと耳にする)。
いつも不思議に思うのだが、なぜ、この点に関して、本格的な研究がなされてこなかったのだろう? まさか、現実を直視するのが恐ろしかったからか!?

「富士山が見える!」と「I see Mt. Fuji !」の違い ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

他人に文句を言う前に、できることからひとつずつ自力でなんとかしろ。みんな、そうやって生きてるんだよ。小さなことからコツコツと「既にやりはじめている人達」に失礼だろうが、というのが一点。

そして「答えがない」、「誰も研究していない」と思いこむのは、俗流日本文化論にたぶらかされて、「問いの立て方」を間違っているからではないか、というのが一点。

「比較」という手続きは対照するサンプルの選び方で学にもなればトンデモにもなる。毒にもなれば薬にもなる。

バカにつける薬はない、で話が終わってしまわないように気をつけたい。俗説に悩む心に効くのは、高邁な「学問」ではなく世間の知恵。生活の擦り傷は一日がかりで大学病院へ行くことではない。彼女に絆創膏貼ってもらいなさい。

以上、朝の頭の体操のヒトコマ。人間、夜中は妄想が渦巻いてロクなことを考えない。