「第三の懐疑」:サブカルチャーのほうへ

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

白石知雄は懐疑が足りないそうなので((笑)←懐疑に「笑い」は不謹慎だ、と言われそうだが)、ピーター・バーク『知識の社会学』の終章「知識を信ずることと疑うこと」の読書ノートをまとめてみる。

この文章は、17世紀が20世紀のように見える、20世紀の知識人は17世紀からほとんど外へ出ていないじゃないか、と読者に思わせるように仕組まれているので、歴史から現在を学ぶ、にちょうどいい。

(なお、以下の文言・言い回しは当該書を正確に引用したわけではなく、ほぼこういうことだろう、と自由に敷衍しています。)

1. 懐疑三態:相対主義・科学信奉・権威批判

人の意見[←「信念」と言うほうがいいのでしょうか]は多様なので、現象についての判断は慎むべきだ、という古代ギリシャ、エリスのピュロンの見解を紹介したセクストス・エンペイリクス[AD200頃、Sextus Empirics = 経験(empeiria)主義のセクストスの意味でしょうか]の『ピュロン主義の概要』(1562年フランスで出版、1569年ラテン語訳[とバークは書いている])への関心が高まったことを最初に紹介してから([……このあたり私には何の知識もなくほぼ文面の自動筆写→あとで少し調べて ×ビュロン → ピュロン など若干書き直し])、

17世紀のトレンドであるところの「懐疑」をピーター・バークは3つにまとめる。

まず、「哲学的懐疑」が2つ。

  • (a) 「博識な自由主義」 = 宗教論争や歴史書を耽読したシニシズム
    • 立場が違えば意見は変わる
    • 人は自分の成功をより大きく見せようとするし、自分の失敗をより小さく見せようとする
    • 論争的な書物を読むのは、事実を知るためではなく、(書き手の)「偏見」を知るためである
    • それに世の中には、偽書が横行し、著者名が偽って(or誤って)伝えられたりするのだから、どうしてそこに書かれた「事実」を信じることなどできようか
  • (b) 「穏やかな懐疑主義」 = 自然科学の衝撃による、いわば「去勢」
    • 原子の発見 = 見かけの現象を越えた世界があると知ってみんなびっくり
    • これからは、現象を記述するに留めましょう
    • 意見は「仮説」、「試み(エセー)」に過ぎません、謙虚さが大切です

そしてもうひとつ、権威批判へ至る「実践的懐疑」というのを指摘する。

  • (c) 「権威批判」:印刷・出版がさかんになる → 情報が氾濫する → 政治論(スペインをどう見るか、が当時の話題)も旅行記(アジアやアメリカの話は興味津々)も日々のニュースも、意見の食い違いが色々あることに多くの人が気がつきはじめた → アリストテレスは本当にエライの? 大学は信用できるの? 聖書に書いてあることはホントなの?

さて、どうするか?

(モンテーニュを高く評価する小谷野敦は、ほぼ、こうした懐疑の境地に文学を花開かせる人、と言えそうで、そういう人は懐疑に安住するわけですが……。)

2. これで解決?! 幾何学的方法ならびに医療・裁判型経験主義

17世紀の処方箋は、幾何学的方法と経験主義の2つ。(教科書的な記述でおなじみのお話ですが。)

ピーター・バークは、「幾何学的方法」に対する各方面からの讃辞とでも言うべきものを列挙して(なんだか新作映画の広告みたい……)、

  • 道徳、政治、批評、雄弁術に幾何学的方法を適用せよ!(ベルナール・ド・フォントネル、デカルト派)
  • わたしのエチカは「幾何学的方法による証明」である(スピノザ)
  • 歴史に公理を打ち立てよ!(ジョン・クレイグ、ニュートン派)
  • 一般言語、思考のアルファベットetc.(ライプニッツ)

経験主義(系統的実験を提唱するが、世界を実験し尽くすことは不可能なので帰納法との組み合わせになる)については、17世紀がゼロから作ったわけではないけれど、「方法意識」が先鋭化したことを指摘します。新しい機器の活用、データの系統的収集、そして、手引きの充実。

(回文(文字のシンメトリー)とか対偶探しとか、パズル的な頭の体操が懐疑に効くと信じている人は、わたくしたちの身近に実在しておりますし(笑)、今も昔も、人文学と自然科学の垣根を取り払って明晰なシステムを構築するのが「知の最前線」、懐疑の監獄を脱出する正道だと考えるわけですね。)

面白いと思ったのは、経験主義が細部の観察を推奨する傾向(「真理は細部に宿る」)を、医者が「症状」に着目して治療する行為に喩えること、そして、「博識な目撃者」を取り調べる(research)新しいタイプの裁判のあり方が調査・研究としての research のモデルだっただろう、ということ。

裁判の比喩は資料調べの役に立つ。論文や実録本の準備は、こんな証拠では犯人を逮捕できない、どうする!と自問する刑事ドラマのサスペンスに似てきます。

(書物に、証拠への参照を記す「脚注」が求められるようになったのもこの頃からであるようです。)

3. 信用の失墜と利権の暴露

でも、「幾何学的方法」と「経験主義」は、上で言う「哲学的懐疑」(いわば書斎の懐疑主義)の処方箋にはなりえても、「実践的懐疑」(グーテンベルクな印刷物の氾濫する情報社会における権威への疑い)を払拭できるかどうか、心許ないかもしれません。

学者・医者・弁護士は、偉そうな「先生」業、「大衆」には理解できない「専門家の知識と技術」で金儲けをする商売の典型ですもんね。この種の商売に従事する人たちは、貴族やジェントリじゃないのに、いちはやくジェントルマン階層に入れてもらえた「勝ち組」ですし……。

(経験主義者 empirics には「ヤブ医者」の意味もあるのだとか……。Sextus Empirics の頃から経験主義と方法主義の対立の本丸は医学だったようですね。)

ピーター・バークも、このあたりの事情に気付いているようで、終章の最後に

  • (1) 「credity(信念・信用)」は、美徳から軽率へ価値が下落する(cf. フランシス・ベーコンの有名な「4つのイドラ」)、つまり、他人を信じるのは、善きことというより愚かなことだ、と考えられるようになった
  • (2) そうして「信念・信用」の仮面・偽装・偏見・不公平を暴くことがさかんになる
  • (3) そうしてそのような仮面・偽装・偏見・不公平の裏側にある「interest(利益・関心、いわば「利権」ですな)」が指摘・発見されるようになる

という風に解説します。

英国の醜聞・スキャンダル好きの原点はここだ、ということでしょうか。

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以上でピーター・バーク先生のお話は終わりなのですが、懐疑の塊となって経験主義で権威の仮面を暴くスキャンダリズムは、往年の週刊誌ネタ、今ではネットの得意技で、私も嫌いではないですけれど……、ひととおりやると飽きますよね。

(週刊誌の愚劣な企画をネット世論が公開停止に追い込むのは、理性の狡知ならぬ懐疑の狡知、という感じで興味深い現象かもしれないとは思いますが。)

「現代文化研究」の花形と言ってよいであろうサブカルチャーに関わっていらっしゃる方々は、必ずここへたどりつくに違いないと思うのですが、そういう方々はどのように解脱されるのでしょうか?

懐疑の闇は、「語り得ないもの」へ沈潜して底なしなのか、そこには、別の世界、ハイデガーと同じかもしれないし違うかもしれない「存在の開け」があるのか?!