川端康成の街の吹奏楽の話

地図の上では、都道府県や市町村の境目がちょうど国境線のように明確に線引きされていますが、どこでもそうだと思いますけれど、住んでいる人の生活圏は必ずしもそれと一致しないところがある。

川端康成はノーベル文学賞をもらったときに茨木市の名誉市民になりましたが、彼が住んでいた東村は、大坂の役で幕府天領になるまでに中川清秀や『桐一葉』の片桐且元が城主だったこともある茨木城(楠木正成の築城とされている、いまはない)のご城下とは別の集落のような気がします。

最近やっとそんなことを思うようになってきました。

「最近やっと」なのは、私が川端家の東村から安威川を挟んだ南側の山の竹藪を開いた団地の新住民で「地の人たち」のことをよく知らずに暮らしてきたからですが、以下、思えばあれは、ボンヤリした新住民が「旧住民」な方々と接近遭遇した不思議な環境だったのかなあ、と思ったりするお話です。

川端康成伝 - 双面の人

川端康成伝 - 双面の人

小谷野さんが再びここを訪れることはないとは思いますが、茨木の「虎谷書店」は「とらや」ではなく「とらたに」だと思います!

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今住んでいる団地が出来たのは万博の頃らしいですが、私の一家が越してきたのは1979(昭和54)年の夏、わたくしが中学二年のときなので、団地のなかの小学校のことはよく知りません。(それまでは、団地のなかに小学校が2つある、さらに大規模な高槻の団地にいた。)

中学校は、山を下りたところにあって、川端康成の通った豊川小学校の卒業生と一緒になりますが、夏休みが終わった転校初日に吹奏楽部にスカウトされてしまったことは既に書いたかと思います。

吹奏楽部の顧問は、お寺の子なのだけれども寺を継ぎたくなかったので、檀家さんとの妥協案で、いちおう龍谷大学、でも専攻は英文、卒業後は英語教師、という先生(その後、市教委に行ったけれどもしばらくして、若くして病気で亡くなったと聞いています)。わたくしの入る数年前に、ほぼ独力で(おそらく相当に自腹を切って)吹奏楽部を作って、ちょうどその頃バリトン・サックス(女子には大変)を買ったところだったので、男子を捜していて(部員のうち男子は同学年の4人=Tp 1、Cl 1、Tuba 2 だけだった、一年下はすべて女子で、翌年ようやく新入生で男の子が2人加わる)、それでわたくしが、同じ組のTbの女の子を通じてスカウトされたのでした。(転校初日の放課後に、いきなり女の子に廊下へ呼び出されたときは色々な意味でドキドキしたが。)

年に一度、茨木市内の中学校のすべての吹奏楽部が街の真ん中の市民会館(万博のドサクサで国から予算をもらって他市に先駆けて建てたらしい)に集まる連合音楽会があって、わたくしたちは「ポンセ・デ・レオン」を吹きましたが、市内で上手いとされていたのは、顧問の先生が熱心だったと伝え聞く山奥を切り開いた新興住宅街の中学校と、もうひとつは、ご城下に古くからある中学校。この学校だけは、顧問の先生ではなく三年生の生徒が指揮をしていました。演目は「天国と地獄」序曲(抜粋)で、その中三指揮者は、フレンチ・カンカンでお尻振り振りするので会場(平日の昼間なので他校の中学生のみ)は爆笑だった。

年が明けて、三年生が部活を引退した冬に、突然、顧問の先生から「白石、指揮をしてみろ」と言われて、曲は自分で決めていいと言われたのだけれども何のアイデアもなく、同期のクラリネットの男子が、どうしてもあのソロを吹きたい、というので「天国と地獄」をやることにして、指揮といっても何をどうやればいいのかまったくわからず、演奏が全然盛り上がらなかった苦い思い出があるのですが、それはともかく、ご城下の中学校の尻振り指揮者氏は、さらに一年後に川端康成の茨木高校へ進学して吹奏楽部へ入りますと、学校の近所の大通りの仏具チェーン店の支店長の息子で、高校でも指揮者をしていたのでした。

彼が住む仏具屋の二階は高校吹奏楽の男子部員の溜まり場で、学校帰りにみんなで次の演奏会の選曲の相談をすることもあるし、あれこれレコードを聴きながら音楽の話をして、週末はそのまま雑魚寝してみんなで泊まってしまうこともある第二の部室状態。彼は音大へ行くと決めていて、一切勉強しないでトロンボーンばっかり吹いてました。

吹奏楽部が使っていたのは、川端康成が何周年かの行事で講演をした古い講堂で、当時はもう老朽化して学校行事には使われておらず、鳩の住処になっていました。練習中は天井の梁に止まった鳩のフン害に悩まされたものですが、その熱血指揮者氏は、よく休みの日に学校へ忍び込んで楽器を吹いていたし(当時はおおらかだったのか警備員も黙認だったみたい)、卒業前の冬には、何を思ったのか、講堂に勝手に自前のステレオ一式を持ち込んで、フルトヴェングラーのエグモント序曲を大音量で鳴らしたりしていました。

で、そのエグモント序曲に色々ややこしい因縁があったのです。

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高校の吹奏楽部は、「水泳の茨中」と言われた旧制中学時代の応援団に遡る歴史があるとされるのですが、部員十人前後で低迷していた時代が長くて、私の一年上の仏具屋の熱血指揮者からさらに2年上のフルート吹きの指揮者が、クラブ中興の祖みたいに語り継がれておりました。

そのフルート吹きの伝説の元指揮者さんは、仏具屋の熱血指揮者と中学校も同じで、これも同じく音大志望。高校在学中は、授業サボって近所の喫茶店でタバコ吸ってる札付きの不良さんだったらしいのですが、当時は大フィルのT先生に師事して教育大の特設音楽科を目指して浪人中。それでも、ときどき高校の練習をのぞきに来ていました。才人めいたところがあって、あるときレスピーギの「リュートのための古い舞曲とアリア」第3組曲を吹奏楽に自分で編曲した譜面をもってきて、結局これを仏具屋のトロンボーン氏の指揮で2回くらい本番で演奏しました。私が高校二年生になった春に目出度く大教大の特音に合格したので、毎年近所の高校と一緒にやっていた秋の演奏会の指揮をこの伝説の先輩にお願いすることになります。合同ステージの曲目は、既存の譜面があったラヴェルの「ボレロ」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」、それからメインは、彼が自ら編曲したマーラーの「巨人」の終楽章。1982年11月。彼はバーンスタインに心酔していて、それでマーラーがやりたかったみたいです。卒業後もフルートを続けていて、今は専門学校で教えながらボサノバ・バンドを組んだり、色々やっていらっしゃるようです。(後年、別の知り合いのヴォーカリストが彼と仕事で一緒になったことがあると聞いて、世間は狭いと思ったものでした。)

さて、そしてその伝説の指揮者さんが高校の現役時代に、同じく近所の高校との合同演奏会の各高別のステージで指揮したのが「エグモント」序曲だったのです。このとき私は中学二年で、客席で聴いていました。たぶん、先述のクラリネット吹きに誘われて行ったのだと思います。

(さらに言うと、この演奏会の合同ステージを指揮したのは、先述の仏具屋のトロンボーンの先輩や、その2つ上の伝説のフルートの先輩と同じ中学から茨木高校へ進学した人で、その後、ほぼ独学で音大へ合格してしまって、音大卒業後はすんなりオーケストラに入団してしまった変な人です。このときはショスタコーヴィチの五番の終楽章をやっていました。この大先輩も高校の吹奏楽部の練習をこまめに見てくれて、私も大変お世話になりました。今でも、高校とは事実上の技術顧問のような関係が続いているようです。そして、わたくしは毎月のようにオケの定演でこの大先輩の姿をステージ上で拝見して、ときどきそのオーケストラの批評を書いたりしているのですから、どれだけ関西のクラシック業界は狭いかということでもあり、おそらく楽員さんそれぞれが、各地でそういう形で地元と何らかのつながりを持っているに違いないのですから、自分たちの街にプロフェッショナルなオーケストラがあることの意味というのは、単に個々の演奏の善し悪しだけでは語れないと思わざるを得ないわけです。)

そういうわけで、話がごちゃごちゃしますが、私の一年上の仏具屋のトロンボーン吹き氏は、結局、中学時代からさらに二年上のフルート吹きの伝説の先輩の影を追いかけるように音楽の道を目指して、それで、かつて憧れの先輩が振った曲を自分でもやってみたかったのだと思います。でも、こういう思春期の憧れはしばしば拗れるもの。フルート吹きの先輩や、さらにその上のオケマンになった大先輩が何度か「エグモント」の練習を見に来たのは、おそらく、大人びた礼節の人だったトロンボーン氏のほうから、来てくれと頼んだんだと思います。そして、練習の最中も、練習が終わったあとでも、先輩ならびに大先輩から、細かくかなり厳しくダメだしされていました。

フルートの伝説の先輩は、口調はエレガントなのだけれども、言うことが鋭く刺さる感じ。独学で音大に入ってしまった大先輩氏は、1954(昭和29)年生まれで、在学中に上級生が体育館を封鎖して卒業式ができなくなるのを経験した学園紛争直後世代で、音楽をとことん理詰めに探究して、相手が高校生であろうと、対等に扱ってとことんディスカッションしようとする人。よく練習後に喫茶店に誘われて、何時間も話し込んだものでした。

プレイヤーの立場だと、この二人の先輩たちが来ると、色々なアイデアを出してくれるので練習がエキサイティングになって嬉しかったものですが、指揮者の立場だと、横から即座にダメだしや指揮者の頭越しのプレイヤーへのアドヴァイスをされるのは、かなりキツい。練習後のディスカッションでも、指揮者が矢面に立つことになりますから精神的に大変です。仏具屋のトロンボーン氏が自宅のステレオを夜中に練習場へ持ち込む暴挙に出たのは、精神的に追いつめられて、相当に煮詰まっていたんだと思います。私も次の年に指揮者をやって、たっぷり同じような目に合いました……。

この人たちは、吹奏楽のコンクールで良い成績をもらうようなことは最初から一切眼中になくて、評論家的な高邁な精神論も退けて、ひたすら、アンサンブルをどう作るか、フレージングをどうするか、といった演奏家目線の「音楽道」を高校生相手にひたすらやっていました。指揮者が奏者に一方的に命令しようすると合奏はかえって混乱する。状況を見極めて、演奏を活性化する触媒のようなポジションを見つけないといけない。そのために、ここはどうすればいいか。あそこが上手くいかないのはどうしてなのか、と語り合っていたように思います。

進学校的に頭でっかちなところと、先輩、大先輩たちが音大やプロのオーケストラで仕込まれた現場感覚が衝突する感じの議論で、おそらく、高校生相手の指導というより、まだプロとしてはそれほど経験があるわけではない現役音大生や現役若手オケマンとして、先輩たち自身がひとつひとつ手探りで考え詰めようとしていたんじゃないかと、今振り返ると思いますね。

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仏具屋のトロンボーン氏は、やはり大フィル奏者に師事して大教大へ入りましたが、卒業後は奏者を諦めて楽器店に就職。実はそのトロンボーン氏と、2年上の伝説のフルート氏の間にひとりいるのですが、この人は、ブルックナーをこよなく愛するサックス吹きで、京都の美大の日本画へ進んでデザインの仕事などをやっていらっしゃるようです。わたくしはこんな風に今もフラフラしていますが、さらに何年か下で指揮者をやった子は、作曲科へ進んでアメリカのどこかへ留学したのち、今はタカラヅカで作曲のアシスタントをしているらしい。

こういう高校生活がどの程度に変なことなのか、どの程度に普通のことなのか、私は判断する確たる基準を思いつくことはできませんが、たぶん、茨木のような規模の街だったら、この程度の頻度に芸事へはまっていく人間が出てくるのは、それほどおかしなことではないような気がします。

音大・芸大やオーケストラのある大阪と京都の両方に対するベッドタウンと言われるような位置ですし、ご城下の中学校や高校には、それなりの誇りのようなものがあるのでしょう。(歴代の先輩達の通った街の中心の中学校を一度のぞきに行ったら、吹奏楽の部活はほぼ生徒が自主運営していたようで、部員たちは中学生にしてはオトナびて見えた。)そして当の大阪や京都(あるいは東京)の街中には、そしてあるいは、もっと大掛かりな郊外の住宅街には、また別の配合で、一定割合に芸事にはまる人間が出てくる環境があるのだろうと思います。

それぞれの経緯で芸事にはまってしまった人間(人材?)のなかからさらに有望な者をピックアップして、上手にまとめて舞台に並べると、「ハイ・アート」や「ハイ・カルチャー」を演出することになるのでしょうけれど、人がそれなりの密度と多様性で集合離散していれば、まあ、それなりの何かが出てくるだろうし、それだけのことじゃないか、と思う。

結論や何かがあるわけではないですが、とりあえず、そんなところで。