1981年の読み書き能力の効用

若者文化のフィールドワーク―もう一つの地球文化を求めて

若者文化のフィールドワーク―もう一つの地球文化を求めて

リンク先の書名は誤入力。「×地球文化 → ○地域文化」

この本は、読んだけれども自分には手に負えない内容だと思ったので中身については何もコメントできませんが、引用されているY氏(1956(昭和41)年生まれの著者の先輩なので1950年代前半生まれ?)の中学・高校時代の日記の文体が端正な言文一致であることが印象に残った。

内田樹が自分たちの文体だと思ったらしい庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』が1969(昭和44)年だけれど、そんな「若者文化」的'60sの痕跡のまったくない文体。でも、大学などで遭遇したその世代(私より一回り上)の人たちの顔を思い浮かべると、みんな日記を言文一致で綴りそうだなあ、と思うので、こっちのほうが普通だった、という理解でいいのでしょうか……。

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こういうことは文学研究や言語学で詳細で正確な推移が把握されているのだろうと思うのですが、明治生まれの知識人は、言文一致体の小説や論説を綴る人でも、日記や手記が「○○セリ」とか漢文体だったりするみたい。

そうして、おそらく日常会話の話体はそのどちらでもなかったと思われるので、日本語といっても、少なくとも三種類を使い分けていることになりそう。俳句や和歌をたしなむ人なら「〜〜けり」とかの古文体も使っていたはずなので4種類。

1918(大正7)年生まれの大栗裕も、楽譜の余白の走り書きなどに「○○セリ」とか書いてあったりします。

1899(明治32)年生まれの川端康成の「十六歳の日記」が言文一致なのは、既に小説を試み始めていて発表を前提とした日記だったとされるようなので、よそ行きの気取った文体ということなのか、それとも、漢文脈が内面化されていない「新人類」だったということなのか……。

いずれにしても、明治大正期には、現在で言う「思春期」に特有のエクリチュールはなかったんだろうと思う。子供や青年もオトナと同じエクリチュールでものを考えていたのだろうと推定せざるを得ない。そして日記や手記の私的で自己対話的・心内語的なエクリチュール(言語学とかで、こういうものを指す術語が既にありそうですが)は、明治か大正のどこかで漢文体から言文一致に切り替わったのだろうと思う。(公刊される「文学」のエクリチュールの切り替えよりも、私的なエクリチュールの切り替えのほうが時期はあとなのだろうと思う。)

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そうしておぼろげな記憶をたどると、わたくしは高校のどこかの段階まで日記なるものをあまり勤勉にではないけれども書いていたような気がして、それは言文一致体だったように思う。だいたい1981(昭和56)年とか82年とかそれくらいの話。

もしかすると、コミックとか、60年代以後のサブカル的な読み物とかにどっぷり浸かっているような人(さらには早熟なハガキ職人としてあっちこっちに色々投稿するような人)は、既にもっと新しい文体を内面化して、私的な場でも駆使していたのかもしれないけれど、

そういえば高校の吹奏楽部では、親睦を深めるためだったのか何だったのか「パート・ノート」と呼ばれる一種の交換日記があって、順番に回って来るのを家に持ち帰って何か書いて次の人に渡す、というやつですが、私だけでなく他の人の文体も、基本的には言文一致体だったように記憶します。

意識がオトナと同じだったかどうか、書かれた内容までは覚えていないけれど、少なくとも、オトナと同じ文体で書くのが、進学校の高校生ではまだ普通だったんじゃないかと思う。

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高校一年の同級生女子(メガネっ娘)から、小説を書いているのだとノートを見せられたことがあって、今思えば、「ガンダム」(1979年4月〜1980年1月)のシャアをモデルにした二次制作なのでオタクさんだったことになりますが、当時のわたくしは「ガンダム」を知らなかったので反応のしようがなく、もちろんそのころはまだ「メガネっ娘」という概念もない。そういうのは珍しい、孤独な趣味だったのではなかろうかと思われます。(……いや、文化祭の自主16ミリ映画とか、結構凝ったのを作る先輩のグループなんかがいたので、私が鈍感で知らないだけで、既に「サブカル的なもの」が着実に育っていたのでしょうか。)

ただ、山根一眞がラブホの宿泊者ノートとか調べて『変体少女文字の研究』を出したのは1986(昭和61)年ですが、高校吹奏楽部の前述の「パート・ノート」を丸文字っぽい書体で綴る子はいたような気がします。

高橋治『桃尻娘』が1978年、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』が1982年なので、言文一致の外へ出ること(オトナにならないこと)がむしろ「早熟」であるポストモダンな図式が芽生えつつあった時代なのだろうとは思いますが、

そういう回路が表舞台(テレビとか)に出てくるのは、歌謡曲よりコミック、アニメのほうが早かったのではないだろうか。松田聖子のデビューが1980年だけれど、むしろ、「Dr. スランプ」放映(1982年4月〜1983年5月、CX)がわたくしの高校時代で、口調を真似する女子が吹奏楽部に実在した。

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吹奏楽は、文化祭や体育祭(運動会)でこうした歌謡曲やアニソン(←という言葉はまだなかったと思うが)をミュージックエイトの荒っぽいアレンジでバシバシ演奏する装置なわけですが、

大学の音楽学研究室(学部の三年で初めて研究室の人々を直接知ったのは1986(昭和61)年4月)は、そういう気配を持ち込める雰囲気ではなかったですねえ。

([この段落修正]今や立教大学准教授であるところの井手口彰典先生……がわたくしと同じように大学吹奏楽で指揮者をしていたと伝え聞いた記憶があったのですが……、ご自身のサイトのプロフィールによると関学オケの学指揮だったようですね、むしろオケとブラバンの差異が氏にとっては重要みたい、そうすると、自分が吹奏楽ベースであることを公言して音楽学者になった人って、誰が最初なのだろう、ひょっとして未だ存在しないとか?!)

ともあれ1988年に大学院に入った時点で、わたくしはポツンとひとりだけ「若い」という扱いで、研究生・聴講生を含めても、次に若い人が3つか4つ年上。既に博士課程だった岡田暁生、伊東信宏といった1960年生まれ(私の5つ上)は十分に「若いほう」で、院生のヴォリュームゾーンは1950年代後半生まれで10歳くらい年上=当時30歳前後でしたし……。

(当時の阪大音楽学は、学部から院に進む人がほとんどいなくて、外部から修士終了後とか、数年の研究生・聴講生を経てとかいう人たちばっかりだった。)

ユーミンで卒論を書いた同期の女性がいて、次の学年ぐらいから、ポピュラー音楽で卒論を書く人間が毎年いる状態にはなりますが、1980年代後半の音楽学はそんなもんです。

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いずれにしても、「テレビっ子」が長じた高校生・大学生(主に男子か?)は、1980〜82年に猛威を振るったとされる漫才ブームで言文一致体の日記・手記の自意識から離脱する(した)のではないかという気がするのだが、それがどういう回路だったのかということは、すぐにはわからないので別の機会に。

(……と、いったい誰に向けて書いているんだか。そしてそういえば漫才ブームのお笑いはジェンダー論、フェミニズム批評のフィルタを通すとどういう風に見えるのだろうか。)

社会は笑う・増補版: ボケとツッコミの人間関係 (青弓社ライブラリー)

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