この「ボケ役=大阪弁」という図式の成立と展開こそ、わたくしは「創られた神話」として学術的に表象の分析をどなたかにしていただきたいものだと思っております。
江利チエミ没後30年、映画「ジャンケン娘」&三人娘映画を観る - 仕事の日記(はてな)
この件については、金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』という素晴らしい本が2003年に出ていたことを遅ればせながら知りました。
- 作者: 金水敏
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/01/28
- メディア: 単行本
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大栗裕が大阪言葉で作曲した歌劇「夫婦善哉」のことを整理したときに、日本語学(方言研究)の文献をいくつか読みましたが、いわゆる「船場言葉」を話す人は戦後ほとんどいなくなっているとされ、昭和の終わりから平成にかけては、「河内」、「摂津」、「泉州」の特徴的な言い回しも混ざり合っていて、現実の発話からそれらをクリアに切り出すことができる状態ではないらしい感触を持っていました。阪大の真田信治先生がいくつか書いていらっしゃる大阪や関西の方言に関する著書は、ほぼそのような認識が前提のようです。
金水先生のほうは、社会心理学のステレオタイプ概念を応用しながら、小説・映画・マンガ等のヴァーチャルな物語で特定の役割を演じる話体・文体を「役割語」として切り出し、そのような「役割語としての関西弁」を、「老人語」(ワシは○○じゃ)や「田舎弁」(「おら、つうがいとしゅうてならん」)や「お嬢様言葉」(「あたくしも賛成ですわ」)や「謎の中国人」(○○アルヨ)等とともに論じる立場なのですね。
真田先生との視点・スタンスの違いが鮮やかで興味深いですし、「役割としての上方/関西」にまとわりつくイメージを
- お笑い(トリックスター的、道化的でもある)
- 欲望・快楽の現実主義的な肯定(物欲=ドケチ&派手好き、食欲=食道楽、色欲=エロが3つともあって、さらに、逆境を乗り越えて望みを実現する「ど根性」とエネルギッシュなヴァイタリティがもれなくついてくる)
- ヤクザ、暴力、恐い
と3つに整理するのもきれいですし、
- ドケチ:徳川時代の江戸からみた上方に既にある
- お笑い:エンタツ・アチャコ以来のラジオ・テレビ演芸(1930頃〜)
- ど根性:菊田一夫と花登筺(1950年代後半〜)
- エロと暴力:今東光(1960年代)〜ヤクザ映画〜現実の「大阪戦争」(1980年代)
という風にそれぞれのイメージの源泉と思われるトピックも挙げられていて、今東光は押さえておかねばならない人なのだな、と改めて思いました。
文化庁で藝術祭を作った人(今日出海)の兄が「エロと暴力の街・大阪」というイメージの原点かもしれないというのは、何ともすごい。この兄弟は、標準語という基準点との対比で方言(「大阪弁」)の「役割」が定まっていく力学を地で生きていたということですね。
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また、徳川期の江戸では、関東方言にもとづく江戸語が町人の間で次第に形成される一方、武家言葉は上方語がもとになっていて、上方語由来とされる言い回しが明治以後の書生言葉(「きみ、○○したまえ」)にも残っていた(=近世の支配階級・知識人の言語は上方語と遠いものではなかった)とのことですが、
(そして江戸の武家と町人の言葉の違いは、武家の式楽だった能・狂言が室町以来の上方で/から伝承された様式を継承する一方で、町人の娯楽である大江戸歌舞伎が、上方の人形浄瑠璃にもとづく義太夫狂言(語り口は上方語が基本になる)に、江戸で生まれた世話物が加わっていく、という徳川期の演劇の展開と関連づけることができるかもしれませんね。)
だとすると、エンタツ・アチャコの「お笑いの大阪」は、昭和に入って、東京の知識人が漢文脈を含めた武家の教養を捨て、同時に書生言葉を捨てた時期と一致していることになるのかも。江戸・東京の支配階層の言語に「上方風」が残存・継承されなくなってはじめて、「お笑いの大阪」イメージが生成した、そしてそのような構造の組み替えは、実は昭和初期の出来事だったのかもしれません。
(つまり、「○○したまえ」と言わなくなってはじめて、東京の知識人は、「大阪&大阪弁」をトリックスター的な他者と認識することができるようになったのではないか、ということです。
たとえば、明治生まれの山根銀二や朝比奈隆は、いかにも「○○したまえ」と言いそうだけれど、柴田南雄や吉田秀和は、たぶん、そういう書生言葉を使わないですよね。おそらくここで、何かが切れた。昭和の東京山の手の知識人は、書生言葉を使いそうな鬱陶しい明治・大正文化人を切ったことで、同時に、上方から江戸へ流れてきていたものとも袂を分かった。そしてその空白へ新たに代入するような形で、「過去の日本(上方が文化の中心であった時代の)」が「再発見」され、同時代の関西を「お笑い文化」として見るステレオタイプが発生したのではないでしょうか。)
エンタツ・アチャコの台本作家だった秋田実が、大阪出身で大阪高校から東京帝大文学部へ進学して中退。左翼にかぶれて大阪へ戻る経歴は、「お笑いの大阪」を東京のインテリ文化との相関関係で考える上で鍵になるような気がします。(秋田実重要!というと、神戸出身で、昭和初期のマルクス主義のことを「過去=前近代」との切断という最先端モダニズム思想であったとみなす柄谷行人(富岡多恵子と柄谷の漫才をめぐる対談もある)の受け売りみたいですが。)
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それからもうひとつは、大阪論の復習みたいですけれども、
(1) エンタツ・アチャコ以後のお笑いは、ラジオ・テレビ時代であり、いわば、御堂筋の道路と地下鉄が通った「キタ/ミナミ」のモダニズムに依拠している。
(2) 大阪の「ど根性」は、船場を舞台としており、金水先生は滋賀出身の花登筺が近江商人の倫理観を投影している可能性を示唆していますが、それを言うなら、船場商人が近江商人に由来するという説もあるようですし、どちらにしても、日本の産業の主流が軽工業から重工業へ移行して、リアルな船場が斜陽化しつつあった時期に、失われつつあるものとして見いだされた郷愁の対象なのではないかと思います。
(3) そして「エロと暴力の大阪」は、大阪言葉というより「河内弁」なんですよね。大阪市内の言葉とはやや違うとされるような……。そして、河内・泉州と大阪の関係は、私にはまだよくわからないところが多々あります。ご親族が八尾(言わずと知れた河内音頭のメッカです)と縁があったとされ、出自のことが選挙中に話題になったとも聞く橋下さんが、大阪市の市長になったというのをどう考えたらいいのか、というのも、私にはまだよくわかりません。
だから、あくまで現実がどうか、ではなく、「偏見」を誘発するかもしれないリスクを覚悟のステレオタイプとして言うと、
- お笑い = 御堂筋の未来を担う新中間層の処世術 ← 橋下市長&平成維新の会もこれは嫌いじゃないみたいだし、効率重視の新中間層は彼らの「票田」でもあると思う
- 現実主義とど根性 = 失われつつある船場商人の心意気 ← 橋下さんの中では「子だくさんな元ラガーマン」に変換・代行されている
- ヤクザ、暴力、恐い = 近くて遠い河内の風土 ← 吉本興業は島田紳助を引っ込めたわけですが、橋下派が「河内的」かもしれないものをどうするか、というところはイマイチ見えない
みたいに、漠然と「大阪」ではなく、特定の場所・地域と紐付けられたイメージであるようにも思います。
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そして最後に一言。
この本は、ネタとしてウケを狙っているところが(編集者の発案なのかもしれないタイトルからして既に)あると思います。
マンガを素材としていることも多くて、たとえば、「お嬢様言葉」の文脈で171頁に「ベルサイユのばら」が引用されていますが、第1巻のマリー・アントワネット様のバストショットで、トサカのようなアップの髪の毛がコマを突き抜けております。
2つのフキダシのうちのひとつは顔にかぶさるように手前にあり、こちらは「お嬢様言葉」を含まない標準語(=読者が同一化できるヒーロー・ヒロインの理性的な言葉)、もうひとつのフキダシは、顔の奥に慎ましく控えるような位置に置かれていて、こちらが、
ド・ゲメネ公爵どうお思いになって?
という「お嬢様言葉」で、しかも、「ド・ゲメネ公爵」(←誰だよ(笑))というインパクトのある固有名詞がついてくるという絶妙のリズムとバランスです。どれでもいい1例ではなく、著者もしくは編集者が池田理代子先生らしい一コマとして厳選したとしか思えません。
学術書の姿を借りたネタ本なのか、ネタ本的な関心を引き寄せつつ編まれた学術書なのか、ギリギリを狙っている感じがしますが、日本語学・方言論の目配りの効いた概説書として書物の全体の構成がしっかりしているからこそ、こういう「圧倒的な瞬間」を呼び込めるのかな、と思います。
「役割語」というタームの選択も匙加減が微妙で、もし、「役割」という言葉を当世風に「キャラ」と言い換えてしまうと、途端に、ネタ本へ傾斜してしまうと思うんですね。実際、「キャラ」という言葉を満載にして同様の話題に突っ込んで行く本も出ていますし……。
- 作者: 田中ゆかり
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/09/30
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「ヴァーチャルな役割語」という領域設定は、学術書の姿を借りたネタ本を売りたい大学人の欲望を刺激してしまうところがあるのだろうなあ、人文学は、どこも、同じような状態なのかなあ、と思います。
(でも、私は「方言コスプレ」本を通じて金水先生の研究を知ったので、こういう「学術本の形式によるネタ本」のアナウンス効果には感謝です。)
むしろ私にとっては、そういう「ネタ探し」より、言語学としての日本語学、という視点が新鮮でした。
「社会学者が歴史オンチなのはマズいだろう」ということは、既にあちこちで徐々にり言われつつあるように思いますが、
同様に、
「分析哲学は言語学を無視できるのか」(一般化すれば、哲学者の言語観は本当に大丈夫なのか?)ということを、もっと言っていいんじゃないか、と思いました。
英語で分析哲学や分析美学をやるアングロ・サクソン系大学人のひとたちは、言語学(ほぼ英語学と同義)の知見を踏まえずにやると恥をかく、という状況があるはずで、実際、言語学のタームや発想が導入されたりもするのですから、英語の分析哲学・分析美学を日本で学ぶ方々は、当然そういった言語研究一般を視野に収めて、研究書の解読を進めていらっしゃるのだと思います。
で、だとしたら、そのように「原書」の解読で鍛えた言語分析を日本語でアウトプットするときに、日本語という言語の特性を知らないでいいはずがない。
そのあたりは大丈夫なんでしょうか。
日本語における「もの」と「こと」、とか、日本の哲学を日本語の分析から始める手法は以前からありますけれど、そういう高尚なことではなくて、「哲学者・美学者の日本語」の文体・話体の言語特性を言語学・日本語学的に解析するとどういうことになるのか。
哲学・美学の大学院生の学問的言語運用を実地調査すること。ゼミでの会話がどうなっていて、口頭発表や質疑応答・論文の書き言葉がどうなっているか。ニッチな領域で、日本語学者さんの手を患わせるのはお手数ですから、哲学の院生が副専攻(そんな制度は日本にないけど)として、そういうことを調査・分析してもいいんじゃないでしょうか。
哲学・美学の学生の言語運用において何が起きているのか。金水先生の言う「文化的ステレオライプ」(=未知のもののカテゴリーを養育者や周辺環境から獲得する、いわば「知ったかぶり」)が頻出して、言語の個人的・私的運用の領域を著しく浸食するといった、学生一般にあって当然であろうと思われる特徴と、「日常の哲学」を標榜することの帰結として彼らが運用していると想定される「日常語」がリアルというよりヴァーチャルな「役割としての日常語」になっている可能性とが、どのように配合され、関連したりしなかったりしているのか、ということを知りたいです。
そうした自身の言語運用のチェックは、分析哲学や分析美学への信頼度をアップする上で、絶対、有益だと思うのですけれど……。