システムの崩壊に立ち会う者

毎日90分×4コマで規則正しく進むコンヴィチュニーのオペラ・アカデミー。1行ずつ、ワンパラグラフずつ進んでいく感じは、大学の文学部を出た人ならみんな一度は経験して、でも最近はそういうスタイルの教育が不可能になりつつあると嘆かれたりもしていると聞くアレだな、と思ったり、

(そしておそらく同様のことを、作曲家を志す人であれば、一音ずつ、ワンフレーズずつ、音の動かし方を確かめながら組み立てていくエクリチュール教育で経験するし、音楽学者だったら、一音ずつ楽譜を読んでいくアナリーゼでトレーニングされるわけですね。)

毎日朝から夕方までいると、色々なことを思うのですが、

それにしても、

4日目の3コマ目で1幕の最後まで来て、最後のコマと5日めの1コマ目で1幕を通して、折り返し地点まできた感じ。なんとなくやり方に慣れたような気になったところで、2幕の最初があんな風になるとは、びっくりでした。

入場の音楽と、3回和音が鳴るのと、ザラストロのアリアと、音楽は小さいのが3つあるだけで、台本の台詞も既存のままなのに……。

ほとんど台詞だけで進む場面を音楽劇(の解釈)の要の位置に据える、(しかもそれが祝祭的な場になってしまう)というのはコンヴィチュニーらしくもあり、こういうやり方をしたときに絶大な効果を発揮するのが Regieoper だ、ということでもあり、「魔笛」でこういうことができるというところから、ドイツの音楽劇の歴史とか、「混合趣味」の国というアイデンティティの深度とか、色々考え直したくなってしまいます。

それに、通訳さん(ほぼコンヴィチュニーと一体で彼女の存在なしにはセミナーがこういう形では成り立つまいとすら思える)が彼女にしかできない形で場面に参加したので、これは正真正銘にびわ湖のスペシャル・ヴァージョン。

わたくしは単純ですからこういうのに弱い。ああ、弁者のシーンをあそこまで観客参加で盛りあげたのは、ここでこういう風に効くのか、とか、あれやこれやで、既に稽古で泣いてしまった。

(思わせぶりな書き方しかできずに申し訳ないですが。そしてここをやったのが5日目の午前中。この場面を作ったあと、コンヴィチュニーがえらく長々と「演出とは」と演説したのは、たぶん、「オレがやったこと、ちゃんと見たか、これだよこれ」的に出来映えに自信があったんだと思いますが、残念ながら受講生以外に観に来ている人があまりいないときで……、まあ、得てして決定的なことはこういうタイミングで起きるもの。

オレはちゃんと見たぞ、と自慢するとか、そういうことではなくて、見てしまった不幸というのがたぶんあって、そう簡単に収支決算がチャラにならない贈り物を受け取ってしまったところから何かが始まる、というか、目撃してしまった者が業を背負うようにしてそれぞれでなんとかしようとジタバタすることになるのが「教育」というものなのでしょうね。

ものすごく情報通だけれど、そういう瞬間を測ったように見事に取り逃がす人とか、見てはいないけれど、きっとそういうことが起きているんだろうことを想像できる人とか、人間色々。)