倫理?

  • (1) 素朴な疑問なのだが、出来上がった映画は企画書通りの内容になっているのだろうか。絵コンテを何ヶ月もかけて前から順に書いていったときに、物語が動き出して、結末が当初の予定と違ってきたりしていないのか。
  • (2) 「倫理」と訳される ethos は、もともと慣習という意味らしいので、その人が行動の指針とする価値観、くらいの意味だろうと思う。常識的には、倫理を問う、吟味する、というのは、「そんな発想で行動してええんかいな」と問うことを指す。ヒトの行動は○×式の正解・不正解を決められるものじゃないので、真偽・正誤の探究とは別枠で、善悪とか、適・不適といった判定基準を設定したりする。

で、「答えは一つじゃない」というより、判定の基準を別のところに求めなければしょうがないと言うことだと思う。

そしてそのように元来○×で決められないはずことを、一足飛びに「多分どちらも正解なのだ」と言っちゃうのを短絡と呼ぶ。

短絡的なことを「言う/書く」ことはいくらでもできるし、割合ヒロイックな気分に浸れてすっきりしたりするけれど、自分の身体はひとつなので、短絡的であろうが、深淵深慮にもとづこうが、「行動」するときは、結局、どれかひとつを選ぶことになる。で、その行動が「悪」とか「不適切」と判定されると、行動に対する判定は、真偽・正誤の○×の判断とは違って、ダイレクトにあなたの身体へ跳ね返ってくるから、結構きついヨ。

「何いうとんねん、ボケ」(ポカン、と殴られる)とか、有無をいわさず、どっかへ連れて行かれちゃう、とか。誰からも相手にされずに孤立する、とか。

そこまで視野に入れた上で行動することを指して「倫理的」と言うんで、他人のやったことを、口先だけでああだ、こうだ言うのは、まあ、そういう風に言葉でスッキリするのが趣味なんだろう、ということになる。別にいいけど。

で、「ねばならない(should)」は、決意というより、個人の意志を越えた価値やシステムに従い責任もしくは義務を果たそうとすることだと思う。自分が勝手に意志する(will)のではない案件。当為、と呼んだりする。そこを押さえないと、倫理の話にならない。美であれ戦争であれ、個人の意志を越えた価値やシステムへの対応が問われるわけだし。

(でも実際には、いかにも「個人の意志を越えた価値やシステムへの対応が問われ」そうな物語設定なのに、主人公は、徹頭徹尾、自分の外部を無視してるよなあ、と、賛否両論あるけれども、そのあたりに論評が落ち着いてるんじゃないのだろうか。だから、たぶん最後までスッキリしない話なんだろうと当たりを付けているのだが、違うの。)