詩的言語と歌手の視線

フィッシャー=ディスカウはドイツ・リートの大家ということになっているけれど、「あれは朗読であって、歌ではない」と言う人もいるみたい。

昔NHKでカツァリスのピアノなどと平行して、彼がドイツ・リートをレッスンする番組がありましたが、見ていると、シューベルトなんかを指導しながら、「この言葉は目の前の相手に直接語りかけているのだから、視線を遠くに飛ばしてはいけない」と言ったりしていました。いわゆる「詩的言語」(メッセージの伝達ではなく、言葉そのものがメッセージであるような言語の働き)をふわふわと漂わせるのではなく、ごく普通の意味でのコミュニケーションの言語として発話しろということですね。

そこに賛否両論があったようです。

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ヤコブソンが「詩的言語」ということを言ったらしい、というのは聞きかじりで、近代芸術論に繰り返し出てくる「芸術の自律」の話の一種で、ハンスリックの形式概念が「芸術音楽の自律」の簡易普及版として流布したようなものなのだろう、くらいに、かなり粗雑に知ったかぶりしているだけなのですが、

歌い手さんが、(やや上向きかげんに)遠くを見るような目をするのは、いわゆる「歌手のポーズ」を構成する一要素で、あの姿勢は、おそらく元来は声が出しやすい姿勢、歌っている本人が(西洋流の)いい声を出すことに全精力を注ぐのに都合がいいポーズなのだと思いますし、その「声に集中している感じ」が、「声の自律」すなわち歌唱におけるアートな身体性だということになって、そこで発せられる言葉もまた、日常モードからポエムのモードへ切り替わる、というようなことになっているのかな、と思います。

日本では、もうそういう習慣はなくなったと言っていいと思いますが、詩の暗唱、朗読にも似たところがありそうですよね。

「山のあなたの空遠く……」とか、「まだあげ初めし前髪の……」とか。

リート歌手としてのフィッシャー=ディスカウが「そういうのに自足するのは止めよう」派の先鞭を付けた人だったらしい、というのは、忘れてはいけないことなのかな、と思います。あの人、目に力がありますもんね。

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で、これは相変わらずオペラの話のつもりなのですが、たぶん、そういう、「歌手のポーズ」で中空に声を漂わせるのを止めよう運動は、オペラから来たんじゃないかと思うのです。

戦前のバイロイトの断片的な映像などを見ると、あらゆる台詞がモノローグであるかのように、みなさん一定のポーズで前向いて歌っているけれど、戦後のフェルゼンシュタインの映像は、「フィガロの結婚」でも相手をガン見しながら歌っている。オペラ版アクターズ・スクール、ジェームス・ディーンやマーロン・ブランドな感じ。AがBを凝視して、BはCに視線を飛ばす、みたいに視線のベクトルを舞台上に張り巡らせることがオペラ演出のリアリズムなのだ、という感じがします。

ウィーンの歌手やマリア・カラスも、そこまで強烈ではないけれど歌う言葉を舞台上のコミュニケーションとして組み立てる意識がはっきりありそうで、たぶん、そのスタイルをリートに持ち込んで成功したのがフィッシャー=ディスカウだったのかなあ、と私は理解しています。

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で、シェローの演出みたいに現代の格好で舞台に立つときには、もっと自然な表情・目線じゃないとおかしいし、コンヴィチュニーになると、状況に応じて、舞台上のすべての人物が百面相のように色んな表情をすることが求められる。「また男たちが小難しいこと言ってるよ、お腹空いたなあ、今晩何食べよう」とか、そっぽ向いて別のことを考えていたのが、相手のある言葉や行動をきっかけに、キッと表情を変える、とか。

(コンヴィチュニーの世界では、オトコはバカで身勝手だということになっているので、そういうヴィヴィッドなお芝居をやるのは、たいてい女性ですが。)

そしてこういう風に身体を解放しておくと、ピットで鳴っている音楽にも今までとは違った仕方で柔軟に対応できるようになる。そのあたりが、あの人のオペラ演出の骨法なのかなあ、という気がします。凄い和音が鳴っているときに、ちゃんと凄いことができるようになる、と。

音楽を誘発し、音楽に反応する身体をどのように編制するか、指揮法の変遷などとも関係することのような気がします。(コンヴィチュニーは指揮の修行をしたこともあったらしいし……。)

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最近、音楽をとりまく言葉の問題が気になって仕方がないのは、わたくしの中では、そのあたりと関係しているんだろうと思います。

最初から決め打ちで「歌手のポーズ」に音楽を押し込めるかのように音楽を語る文体を固めちゃうのは、いいかげんもう止めていいんじゃないか、とか、音楽を語る言葉にも「素の状態」というのがあっていいはずなのに、すべての言葉に宣伝の電流が流れていると、読んでる方が疲れちゃう、オフタイムにはスイッチを切れ、とか、色々思うのです。

「詩的言語」とセールストーク(あと「謎解き」のしかめ面)をやめたら、もっと楽になると思うんですけどね。

鎧を解くことができない理由は、「詩」と商売だけでなく、他にも色々ありそうで、それが何なのか、まだ見極めはつかないし、

「音楽を聴く型」の問題とも絡まっていて、語り方を自由にしてしまうと、何をどう聴いているのか、ぜんぶ素通しになるのが恐い(虚勢を張っていたのがバレちゃう)とか、クラシック音楽が見栄のアイテムだった経緯との関係でそういうこともありそうなので、根深そうですけれど……。

歌手の皆さんも、コンヴィチュニーがいろいろ挑発したときに、そこにポンと乗ってしまおうと決めるまでに、大なり小なり躊躇するところがあるみたいですね。

(そしてそういう気配を察知すると、今度は、その歌い手の「未知の世界へ飛び込むことへの躊躇い」をそのまま膨らませていって、「初心な子という役柄」を造形していったりするから、あのオッサンの何でもかんでも肯定してしまうパワーは、ガシガシに厳しく物事を決めていく人とは反対の意味で際限がなく、恐いと言えば恐いけれど、それが舞台人というものかもしれない、という風にも思う。)