つくる君を捜せ!

本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

本当の経済の話をしよう (ちくま新書)

文壇やお相撲のギルドっぽい感じは、経済学の言葉では「暗黙の共謀 tacit collusion」モデルで考えるといいんじゃないか、という話を読んで、ああなるほど、あの人たちは、その輪に加わらない村上春樹みたいのを音楽でやりたいわけか、という気づきを得た。

だとしたら色々足りないものがあって、

そもそも、橋下くんの一連の攻撃で明らかになったのは、関西圏の文化・音楽業界の地盤は、「暗黙の共謀」の閉じたギルドと呼べるほど盤石の構造ではない、それとはちょっと話が違うらしい、ということなわけで、

むしろ、暗黙であれ明示的であれ、プレイヤー間の合意形成は常に暫定的で脆く、「すごろく」的なヒエラルキーを組み上げることなくフラットに集合離散を繰り返しているように見えます。

ひどくややこしいから、堅牢な城を造りたかったら、大阪はほっといて、阪神間とか京都・滋賀でやったほうが話は早いわけです。(実際にそうなってるし、昭和後期の大栗裕も、自分自身の「勉強」になるまとまった仕事は大阪ではなく、関学や京都でやっている。)

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まあしかし、「ごっこ遊び」としてハルキっぽいノリを体験できるテーマパークを造ることは不可能ではないかもしれず、

だったらやっぱり、ハンブルク行きのルフトハンザの機内で青ざめる私の隣にスッチーのお姉さんが座ってくれて、思い出の中の青春はすべてがブーメランのように自分のところへ戻ってくるナルシシズムの文体が要るだろうし、

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

今日初めて読んだ。ノーベル賞は、もういいよね、記念。

対象読者を、世の中の変化につれて、全共闘世代からバブル世代、そして団塊ジュニア世代へと、シフトしていかないといけないのでしょう。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

「自分が好きな人が世界で認められたら嬉しい」という風に、自分とセカイが相互依存した心性は、消費社会が成長期から下り坂へ転じる初期の世代にありがちな「よくある症状」だ、という風に診断する社会学の学説が随分前に出ているようで、そういう方々をケアする施設があっていいのかもしれません。

孤独な群衆

孤独な群衆

この本が見田宗介風の「まなざしの地獄」で苦悩する現代の大衆社会、都市生活者の「孤立」を論じている、というのは誤読で、戦間期の北米(フィッツジェラルドの時代)にはじまるような、当時の言葉で言う「物質文明」前提の世界が成熟した先での人間関係を考察しており、だから、他人指向型と著者が呼ぶ社会心理は、日本で言えば「なんとなくクリスタル」の80年代にあてはまるのではないか、と吉見俊哉は指摘している。

新中間層のためのセツルメント、という考え方がありうるかもしれない。あの人たちは、最近よく「維新」とか言って暴走しますから……。

都市福祉のパイオニア 志賀志那人 思想と実践 (大阪叢書)

都市福祉のパイオニア 志賀志那人 思想と実践 (大阪叢書)

第一次大戦後に大阪の都市化が急速に進んだときには、社会事業の拠点となる施設を市が造り、大阪市立北市民館の志賀志那人の事業は有名みたい。

でも、今そういうことをやろうとすると、もうひとつ上の階層(昼間しか市内にいないサラリーマン層)がやたら五月蠅いわけですよね。夜は郊外へ帰っちゃうくせに。

だったら、こういう節度のない人たちをなだめるのも一種の社会福祉事業なのだ、と割り切って、誰かがケアするしかないんじゃないかと思うわけです。

ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)

ポピュリズムを考える―民主主義への再入門 (NHKブックス No.1176)

アンチ・エリート主義を汎歴史的に「ポピュリズム」と括って、民主主義が生み出す不可避の症状だ、と言うだけでは弱いと思う。

こういうのこそ、官がやらないなら「民」がビジネスとしてやりゃいいわけですね。

そういう「ケア」と「癒し」の物語としてであれば、音楽家が結婚して丸くなる、という物言いは、(音楽論としてはかなり粗雑だし、結婚の美化には賛否両論ありそうだが)一定の効力があるかもしれない。

音楽はいかに現代社会をデザインしたか―教育と音楽の大衆社会史

音楽はいかに現代社会をデザインしたか―教育と音楽の大衆社会史

教育「学」の論文として大部かつ重装備の文体だけれど、話の筋立てとしては、中山晋平の方言とご当地名産をちりばめた新民謡やヨナ抜きレコード歌謡は、同時代の音楽教育関係者から「俗悪」と嫌われ、散々に批判されたけれど、「国民」の「心情」に寄り添い、日々の生活に「調和」をもたらす効用を当人も意識しており、そこに一定の「教育としての価値」を認めるべきなのではないか。学校の唱歌教育や民間の「国民歌謡」運動の、ブルジョワ的・エリート主義的に「国民」に「秩序/規律」をもたらそうとした動きと、対立するというより、補い合うものだったのではないか、という立論であるようです。

日本の洋楽を、(1) 官僚・知識人が導入した「秩序」(一糸乱れぬリズム)、(2) 大衆が望む「心情」(近世邦楽と地続きのメロディー)と「調和」(ハーモニー)、三者の組み合わせとイメージしていると読むことができそうで、学校教育で下げ渡される「和声法」(合唱の「澄みきった響き」が典型であるような)とは別次元で、流行歌を生活(と)の「調和」という視点で擁護する議論が興味深い。洋楽の三要素と呼ばれたりするリズム・メロディー・ハーモニーを比喩的に組み合わせて使える構想になっているところが、結構いいんじゃないかと思いました。

昭和のジャズやラテンが、オン・ビートの縦割りではないノリで、「国民の秩序のリズム」を崩しにかかる話を、ここに組み入れることもできそうですし。