ヴィルトゥオーソの囲い込み/巡業するヴィルトゥオーソ

2つ前の記事の続きです。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131021/p1

音楽を地域の常設で営むか、旅回りの人たちにお願いするか、そこの区別が結構大事かもしれない、の件の続き、補足ですが、

「ヴィルトゥオーソという「その人にしかないもの」オーラ全開の人々が巡業中心で活動」するようになったのは18世紀の半ばあたりからとされるので、だったらその前はどうだったのか、ということを考えたい。

virtuoso というイタリア語が優れた音楽家を指す外来語としてフランス語や英語やドイツ語に入ってきたのは17世紀か18世紀頃のことで、それはおそらく、音楽家への讃辞にわざわざイタリア語を使うのが不自然とは思われないくらい、イタリア人音楽家(おそらく歌手などのオペラ関係者と、イタリア発祥で急速に広まったヴァイオリンなどの器楽奏者)がヨーロッパを席巻したのだろう、と、門外漢ですが、おおまかに私はそう理解しています。

でも、その頃の音楽家の経歴を見ていると、各地を渡り歩いたといっても、フリーで巡業しているというより、宮廷から次の宮廷へと、ピンポイントで移籍を繰り返している感じに見えます。で、スペインやポルトガルの王族に雇ってもらえたスカルラッティやボッケリーニ、エステルハージに就職できたハイドンなどは、ひとつの宮廷に囲い込まれて、雇い主が死ぬまで、もしくは、本人が死ぬまでずっとそこで暮らしている。

考えてみると、高価な宝石は、それを求める人の間でいちおう流通はするけれど、この時代には、本気で有力な王侯貴族が流通の終着点になる場合があって、巨大なルビーやサファイヤが国王の戴冠式の王冠の中央に収まったりするわけですよね。スカルラッティやボッケリーニやハイドン、そして最大の成功者なのが間違いないルイ14世のところのリュリは、王冠にはめ込まれる「生きた宝石」みたいなものだったんだろうと思います。

パガニーニも20代でルッカの公妃(ナポレオンの妹)に囲い込まれていた時期があるようで、どうやら、その身分を失ったから、しょうがなくコンサートで芸を披露するようになった、という感じに見えます。宝石が王宮から市井へ流出したわけですね。

階級社会は、こういう感じに市場を突き抜けてしまう領域を生み出すし、社会的に成功した人の、いわゆる「道楽」は、しばしばこういう領域に手を伸ばすことであったりする。

月額何百円かの課金とか、年会費いくらとかで、それに近い「囲い込まれたもの」に手が届くのだとしたら、それはお手軽で可愛らしいプチ・セレブなのかもしれないけれども、リアルに天井知らずな領域を見るのは、恐ろしいことですよねえ。

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

ピアノ協奏曲がコンサートの花形だった「ポスト・ベートーヴェン時代」というのは、virtuoso が王侯貴族の囲い込みから市場へ流出した巡業へ転換するまさにその時期です。だから、それ以前の価値観からアプローチしても、それ以後の側からアプローチしても、それだけでは手が届かない「何か」が残る。そしてその「何か」は、唯一性や希少性という概念と切り離せないので、どこかしら「ヤバい」感じがつきまとう。クリーンなイメージで再出発した戦後西ドイツで、コンチェルトの研究がいまひとつ不活性(=親ナチだったとの噂がつきまとう Hans Engel という学者が協奏曲のことを1930年代から1970年代まで一手に引き受ける不思議な状況)だったのは、偶然ではない気がします。そういう領域だからこそ、小岩さんは凄い、と思うのですよ。

(などということを、「新世界」の翌日にゲルバーの「熱情」の猛烈な重低音を京都で聞きながら思ったのでした。芸術は業が深い。こういうタイプのピアニストがスコンと突き抜けた場所を与えられたのが「20世紀の巨匠ピアニスト」だったわけだし、ドヴォルザークのほうは、リアルに東欧の村の楽師を知っている男がケンブリッジの名誉博士号をもらって北米に招聘されたのだから、フランス革命後のヨーロッパでは、おそらく一二を争う「立身出世」ですよねえ。たぶんブルックナーも、同じくらいの野心を胸に抱いてウィーンへやって来た男だったんじゃないかと思いますが。)

作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)

作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)