色々手は打ったわけだけど、結局基本に戻って、協奏交響曲って何なのか、セレナードって何なのか、いまいちよくわかんないから、ピアノ協奏曲もないし、交響曲もないコンサートはお客さんが食いつかなかったということではないんだろうか。ナイフとフォークの使い方がわからない状態だと、立派な○○産のステーキも根性で手づかみのかぶりつきになる恐れがあり、そんな姿を人前でさらすのは、お客さんも体面があるから嫌でしょうし……。

ポストホルンも、最後から2つめの楽章に一瞬出てくるだけで、ほんとはそこに至るまでのフルートとオーボエのコンチェルタンテが悶絶するほど素晴らしく可愛らしく素敵だったりするわけで……、私はこれが聴けただけでもう満足です。こういうデュエットができるところが今の京響は凄い。美しい宝石を堪能させていただきました。

あと、泉原くんのソロは、モーツァルトを力づくで食い散らかす感じがあって、私は感心しなかったな。

(ポストホルン自体は、大学の授業で毎年使ってます。セレナードって、ドイツのシンフォニーの成立を考えるときに、すごく大事な要のジャンルだと思うんですよね。シンフォニーってのは、ダンスあり、色とりどりの楽器のデコレーションあり、オペラの一場面みたいな音楽ありの、バラエティショウだったわけですよね。今回の演目は、どちらも、緩徐楽章の「オペラごっこ」ぶりが素晴らしい曲、と思います。授業でこういう楽章を使うときは、曲を流しながら、サイレント映画の弁士のように、「ああ、あの人は行ってしまった」(と深いため息とともに崩れ落ちる)、「あの頃はあんなにシアワセだったのに」「なぜだ!」「なぜだ!」「あああああ」とか、曲に合わせて台詞を入れることにしております。ポストホルンの緩徐楽章って、そういう風に演じるのに格好の音楽。多感様式って、独白調を発見したことが売りのスタイルですしね。多感様式との接触がなければ、たぶんロジーナの憂鬱も、パミーナの絶望も、この世に生まれなかったはず。)

まあ、何言っても、宣伝のシロウトが勝手に考えた結果論ですけどね。

でも、チケット買うのは一般のお客さんなんで、お客さんの顔が見えてないところで、すがた・かたちを立派に整えても難しいっすよね。

別に批判とかじゃなく、今回は最初の発表のときからずっと観察して参りましたので、自分自身のいい勉強になりました。

ともあれ、まずはこういう形でスタートしたな、と。