君は三橋節子を知っているか?

京響メンバーが会場に入ってきたときに拍手が涌いたんだけど、オケのほうはノーリアクション(別にオケが悪いわけではありません)。休憩後は、もう諦めた感じに同じシーンでの客席からの拍手はまばら。で、(私はそのときにはもう退席していましたが)アンコール前には、たぶん広上さんの簡単なスピーチがあって、そこで、お客さんとやっと心が通じた感じになった。

スタッフさんのどれくらいが現場にいたのかどうかは知りませんが、そういう「ナマモノ」としての流れがあったように思います。

この一連の出来事から何を受け止めて、どうプラスに活かしていくか、じゃないんですかね。

他の解釈もあるかもしれないけれど、私は、客席から拍手が涌いたのは、プレイベントとか、新企画で事前の情宣を手厚くやった企画である以上、そのオープニングは特別な瞬間であるはずだ、という期待があったということだと思うし、そこまでの流れの作り方から考えて、この企画はお客さんと一緒に作る形で3年間進んで行くに違いない、と、そういう形を期待していたんだと思う。そこにどう応えるか、次の手番、次に何かをやるのは、主催者の側だと思うぞ。

個々のスタッフは、サラリーマンとして、分担してこの人が今やるのはこれ、あの人はこれ、となってるかもしれないけれども、外から見たときに、ホールはホールで一体なので。

順当に考えたら、(どこかの誰かみたいに自分の自慢話ではないタイプの)プレトークでコンサートへの導入をスムーズにする、とか、そういうのを入れて、ひとつの企画のすべてのコンサートを同じフォーマットにまとめるやり方があるのかもしれないし、それが無理なんだったら、コンサートはコンサートとして、独立してやる前提で、そこへ事前に準備した流れがスムーズにつながるような別の何かの工夫が要るのかもしれないし……。

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で、話は変わるけど、その絵を描いた三橋節子とは誰か、そこがないと、「三井の晩鐘」の話は動き出さないと思うのだけれど?

はっきり言って、この件で、梅原猛は、当人が前のめりにノリノリだったほどには重要じゃないと思う。プロダクションに登場する人物のなかで、一番「有名」ではあるけれど、彼の「名前」がここに挟まっていることは、プラス(=あの famous な梅原氏がお書きになった)なのか、マイナス(=あの、notorious な梅原氏が絡んでる)なのか、両義的ではないだろうか。

そういうやっかいな案件ではあるけれども、ともあれ、京都の南西の山奥のお城のような研究所を中曽根康弘に作ってもらったあの人が間に挟まることで、肥後橋のイシハラホールの元NHKの戸祭さんや、今は大教大で、藝大では西村氏と旧知の猿谷さんが京都につながって、この際、アシスト役のような形で、梅原氏よりひとまわりもふたまわりも若い京都人脈の伊東、岡田という音楽学者の姿が見え隠れするところもあって(佐治敬三賞は彼らがその場にいたからオマケでついてきたにすぎない)、とにかく、そんな風に「京都」があくまで「中継地点」もしくは一種の「濾過装置」になることによって、大阪の石原産業のホールが、比叡山を越えて大津の三井寺の伝説へたどりついたわけです。

そして琵琶湖の龍を最初にダイレクトに掴もうとしたのは、梅原じゃなく、三橋節子。

これは、大阪から色々なものが溜まる古都・京都を経て大津へと淀川を琵琶湖まで遡り、龍のように因縁が長く伸びるお話であり、この作品の成立は、「龍」のように関西に横たわる淀川の全貌を意識させるところがあるわけです。舞台上には、淀川が海へ流れ込む直前のところの道頓堀(昔はほんとに淀川・大川とつながっていた)の芸能・義太夫節の太棹の師匠が出るわけですし。

そういう文脈を心してつかまないと、龍が動き出さないんじゃないだろうか。

(ついでに言えば、そんな「三井の晩鐘」との付け合わせは、ほんとは、パブロ・エスカンデじゃないのかなあ、と思うけれど、なぜここでエスカンデの名前が出てくるか、あなたにはわかりますか?)

ね、関西には「文化」がかなり濃厚な形で現在も生きているでしょ? みなさんは、いま、そこへアクセスしつつあるんですよ。

関西で意味のある舞台を作ろうとすると、どうしてもそういうことになってくるのであって、これはもうその覚悟でやらないとしょうがないんです。

(大阪万博のお祭り広場で関西の古典藝能関係者が総出で「鉄砲伝来」の出し物をやったときには、振付&淀君役の女性日本舞踊家(片岡仁左右衛門の秀吉と並んで中央に座る役への大抜擢)が過労で倒れて、そのまま回復せずに数年後に死にました。大栗裕とずっと一緒にやっていた花柳有洸。)

四角い書類にテキパキと過不足なく文字=それらしい固有名詞を埋めるだけでは済まない。その手前やその先が大事だし、ほんとの劇場と呼べるかどうか、力が問われるのはそこです。

洋楽と伝統古典を関西で組み合わせるというのは、やっぱり重い事件ですよ。

気の効かない孫がお義理で法事をやるかのように、ぺちゃんこの薄っぺらい板みたいなものをそのまま出すようなことにだけはしないで欲しい。関係者それぞれの「念」の入った仕事であるだろうことは、梅原さんや戸祭さんの顔と人柄を想像するだけでも容易にわかるはず。ややこしいものがあることを受け止めつつ、それをどう、これからに生かすか、再演とは「怨念」を蘇らせつつ鎮めることだと思うので……。わたしゃ、いいかげんなことをして、祟りがあるのは嫌ですからね。

演劇は祭礼です。京都や大津は、そういうことがわかっている都市だと私は思う。大阪でオペラを始めた人たちは、今では神崎川の対岸の西宮や尼崎へ出ていってしまって(この動きは、思えば、昭和のはじめに大阪府下でダンスホールが禁止されたあと川沿いの国道に店が移ったのとちょっと似ている)、最近は吹田や豊中まで戻ってきたけど、まだ市内には帰ってきていません。21世紀の大阪は、祭礼のやりかたをまだ覚えているのか、ここでオペラをやるときには、それが問われる。

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前に「カーリュー・リヴァー」をやったときには、細かいことは長短色々あったにせよ、一緒にやった能の「隅田川」とは、祭礼・鎮魂の力に雲泥の差があって、「こりゃ話にならんわ」と休憩中のロビーは騒然としていたじゃないですか。(あなたが気づいていたかどうか、知らないけれど。)

岩田達宗(坊主の息子)は、あの衝撃の経験があったから、そのあと黛敏郎の「古事記」をやったときに観世銕之丞さんに第一声をお願いしたわけでしょう。

そういう経緯なのですから、「カーリュー・リヴァー&隅田川」を現場で体験した洋楽・オペラ関係者は、「古事記」が銕之丞の音声で開幕したことを極めて重く、複雑な思いで受け止めなければ嘘だと思う。

「三井の晩鐘」で、洋楽は太棹と対面して同じ無力感にうちひしがれることになるのか、そうじゃないのか。あのときと同じ岩田達宗演出である以上、同じことを繰り返しちゃいかん、の覚悟で関係者が準備を進めているものと、私は固く信じています。

(以上、かなり建設的な論説だと思うのだけど、こういう話は、やってはいけないのですか?

こーゆー仕事をてきぱき処理する「できる人」は、待望されてもいるし、実在するなら私も心から尊敬します。)