音楽家の生活

「音楽とそれ以外の職業の二足のわらじを履く」、という「物語」に感動できる人がいて、

「音楽それ自体に現象学的に肉縛する」、という、哲学的にはやや怪しいけれども今もってそのような態度こそが真摯な芸術観賞であると信じる人がいる。

おそらくご両人は話が合う。相性抜群。

「音楽」と「音楽以外」を分けることができて、「音楽以外」とは、ほぼ「生活」を指す、つまり、「音楽」と「生活」を分ける世界観を共有しているからだ。

このような世界観は、どこかしら、「職」と「住」を分離する都市郊外生活者の人生と似ているわけだが、そこには、「音楽で生活する」という都市的なあり方がすっぽり抜け落ちている。

そして彼らは、「音楽で生活する」とか「音楽家の生活」と言うと、夢や霞を食べて生きるボヘミアン(→蔑みの標的)、もしくは、「われわれ」とはほとんど別の生物であるかのような「天才」「選ばれた人」の神々しさ(→崇拝の対象)を思い浮かべて、「音楽家の生活」を、ボヘミアンと天才が、容易に反転するカードの裏表として混ざりあうギャンブルめいた世界と考えるらしいのだが(これが郊外的世界観で歪曲された「ゲーム理論」でありアートをめぐる判断は丁か半かの賭けになる、もちろん一番儲けるのは胴元で、アート愛好とは欲望に目がくらんだ人間の愛すべき愚かさ、凡夫の業ということになる、素晴らしきディストピア)、

でも、おそらくこれは、想像力が貧しいのだと思う。

「ボエーム」とか、大作曲家の伝記とか、通俗芸術物語の読み過ぎである。

「タララン」がチェンジして(加羽沢美濃)、オーケストラがトゥギャザーでシンフォニーする(ルー大柴)のを聴いたら、短調は悲しいかと思いきやかっこいい(石田衣良)。モーツァルトの交響曲40番をめぐる30分の解説番組をそういう対話に構成できるNHKスタッフのほうが、よっぽと「都市的」だと私は思う。

(「平均的な視聴者」の目線で「わかりやすい」くて「敷居が低い」ところがいい、というだけでそう言っているわけではなくて、ここで話題になっているお話は、小鍛冶邦隆さんが『知のメモリア』で書いているこの曲の前衛ぶりと同じ土俵にちゃんと乗っていると思うわけです。言葉の「わかりやすさ」は、内容が幼稚であったり、凡庸であることとイコールではない。最後の実演に過不足なくキャプションを入れたり、番組の作りも丁寧ですよね。)

「郊外」モデルは、それはそれとして、平行して存続するのだろうとは思うし、それらを上手に組み合わせるのがエコノミーなのだと思うけれど。